2018.11.1 風見鶏 “オールド”リサーチャーの耳目

城跡探訪-土地に刻み込んだ叡知を辿る

小机城の土橋跡 土橋の左右は空堀に落ちる急斜面

私は城跡を訪れて歩き回ることが好きです。趣味と言えます。城跡といっても、天守閣や石垣、お堀のある、いわゆる近世の城郭ではありません。天守閣の残る現存天守12城(国宝5城と重要文化財7城)や復元天守を持つ城郭を巡ることも嫌いではありませんが、私が訪れるのはそこではありません。土塁や空堀などに囲まれた土の城の跡なのです。城の出入口に当たる虎口や馬出し、空堀を渡る土橋、山の屋根を断ち切る堀切など土の城には数多くの防禦策が施されています。要するに守るため防砦(ぼうさい)であり要害、要塞ともいえるものです。

こうした城には石垣はなく、ほとんどが土がむき出しのままです。大砲という攻城兵器がなく、平地が少なく山や丘陵地の多い我が国では築城で地震等に弱い石垣工法は長く用いられることがなく、土を掘って城郭の内側に積み上げる土の城が作られて来ました。城に石垣が使われるようになるのは、戦国時代の終わり頃、織田信長が活躍した頃からです。石垣を積み上げる技術を持つ石工集団の穴太(あのう)衆が各地で石垣城の構築に携ったことで、安土桃山時代以降に広がったもので、戦国時代までの数百年の間、城は土で出来ていたのです。合戦のための城、すなわち防砦・要害は本来、守り易く攻めにくいところに、また、領地防衛の戦略的拠点に構築されて来ました。もちろん、合戦なので、攻め手の規模や武器、戦術などに対応して城は柔軟に変化を遂げて、今日、全国各地に城跡を残しています。

城跡といっても数百年の蓄積の跡ですから注意を要します。城跡の数は北海道から沖縄まで正確には数え切れません。未発見のものもあれば、判別不能のものもあって人によって数え方が違ってくるからです。いつも全国のコンビニの店舗数5万7千より多いか少ないかが議論になっています。また、城の作りも構造も城跡となっている現在の姿は、時代的には最後に使われなくなった(放棄された)時のものですから、同じ場所にある限り、それ以前のものは作り直されていて、現在の私達には見ることはできません。発掘調査によって、ある程度は復元することはできますが、全体の姿を知ることは相当に難しい作業となります。

ややこしい解説はこの位にして、具体的に城跡探訪の手始めに適当な場所を紹介して、私の趣味を理解してもらおうと思います。城跡探訪を趣味とする人は実はかなりいて、同好の士に会うとその場で話が盛り上がるのが常です。経済界にも、NTTグループ内にも同好の方々がいます。

さて、ここで紹介するのは、私の自宅(川崎市内)から比較的近い横浜市内にある2つの城跡です。初心者には駅から近くて行き易いだけでなく、手入れよく整備されているので分り易い手頃な広さのものです。第1は、横浜市都筑区にある「茅ヶ崎城跡」です。横浜市営地下鉄のセンター南駅からすぐ東側、徒歩5分程のところにある、茅ヶ崎城址公園がそれです。

茅ヶ崎城址公園入口

茅ヶ崎城址公園入口
10数年前は入口などはなく斜面を登った。

入口の階段は曲輪・郭(くるわ、近世城郭の本丸・二の丸の「丸」に相当)を隔てて守る空堀にそのまま続いていて、中世城郭の雰囲気をよく伝えています。曲輪を囲む土塁までの高さは空堀の底から7~8mあって、上からの攻撃を受けながら人が登ることはほとんど不可能と思われます。この空堀もまた人手で掘って、曲輪の周囲に積み上げて土塁としたものです。

茅ヶ崎城 空堀

茅ヶ崎城 空堀
左右はそれぞれ曲輪(中郭と西郭)

この茅ヶ崎城は、後で紹介する小机城の支城の役割(3.5kmの距離)を持っていて、小田原の戦国大名北条氏(後北条氏)による築城ではないかと考えられています。小机城には小机衆という北条氏の領域支配のための城番がいて、当時の武蔵国南部を所領としていましたので、その支城をここに置いていました。豊臣秀吉によって北条氏が滅亡するとともに廃城となり、その後は雑木林となっていたのを、2005年から横浜市が茅ヶ崎城址公園として整備しています。そもそも、小机城そのものが小田原城を本城とする北条氏の重要な支城でしたので、茅ヶ崎城は支城の支城との位置付けです。戦国大名の領国支配はこのように城郭を網状に配置したネットワークによって行われていました。北条氏による関東支配は西南隅の小田原から始まり、約100年かけて関東の北へと拡大していったので、この武蔵南部地域は比較的早い時期に領国化が完成していて、本支城ネットワークの成熟度は高いと感じます。

続いて、第2の城跡は上述の「小机城跡」です。横浜市港北区にあり、JR横浜線小机駅から住宅や畑の中を歩いて15分程のところです。小机駅のホームから平山城の山容がよく見えます。

小机駅から城跡

小机駅から城跡を望む
電車から警笛を鳴らされました。

小机城跡は、現在は小机城址市民の森となっていて、前述の茅ヶ崎城址公園ほどではありませんが、散策路や説明板などが一応整備されています。城郭の規模(広さと高低差など)はかなり大きく、空堀も深く幅広くなっています。実際にここでは、1478年(文明10年)に城攻めがあり、太田道灌が城に籠る豊嶋氏を攻め、約2か月をかけて落城させています。つまり、戦国大名の北条氏が関東に進出して来る前の関東管領上杉氏の時代に既に築城されていた城なのです。北側の山裾を鶴見川が流れていて守りに適した平山城なので、これを攻め落した太田道灌の名声を高めた城攻めとなりました。

小机城址市民の森入口

小机城址市民の森入口
城郭内に竹が群生して山中の空気

城郭内には、空堀、土塁、堀切、土橋などが残っていますが、西側の一部が第三京浜道路の建設の際に破壊されていて、元の姿が既に分らなくなってしまっているのが残念でなりません。また、この小机城跡は一部で発掘調査が行われているものの、史跡指定等はなされておらず、整備も十分に行われてはいません。そのため逆に城跡探訪者としては400年以上前に放棄され廃城となった城郭の雰囲気に浸り、城攻め当時の姿を思い浮べるのにはちょうどよい城跡となっています。

小机城の土橋跡

小机城の土橋跡
土橋の左右は空堀に落ちる急斜面

この小机城跡では歴史に残る合戦があっただけに当時の城作りの知恵工夫がよく分かるので、城跡探訪にはお勧めです。ただし、小さいですが、山裾からは少し登りがあり、空堀歩きではアップダウンが伴いますので足許の準備は不可欠ですし、竹林の中、虫対策は絶対必要ですので注意してお出掛け下さい。以上が初心者向けの近郊の城跡2つです。もちろん、関東圏はじめ全国各地には、それぞれの時代の特徴を持つ城跡がありますので、日本中どこでも城跡探訪を楽しむことができます。ネットを検索すれば、それこそいくらでも情報を入手することは可能です。

私がこうした城跡探訪に興味を持った理由は、記録や建物・庭、工芸品などに残された人間の叡知だけでなく、土地にも刻み込まれた知恵や工夫があるのではないか、特に合戦という人の生き死にに係ることなので、築城にこそ叡知が注ぎ込まれているのではないかと感じたことによります。従って、私は“日本何百名城”を訪ね歩いて数を誇る気にはなれません。その城郭の持つ歴史、人の営みの物語を現場で味わい、自分なりに発見したいだけです。これにはほとんどお金がかかりませんので、年令からくる体力の低下と相談しながら続けたいと思っています。

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