ネット市場における信頼−シンポジウム− 2001/2/8 (最初のページ)

パネル・ディスカッション

■小林宏一(コーディネーター)
ディスカッションに入る前に、今日の議論の限定づけ、あるいは議論に先立っての確認をしておきます。

まず第1に、Eコマースにおける信頼の問題については、本日論じますような具体的な取引の場における当事者同士の信頼の問題と、広い意味でのセキュリティ問題、たとえばネット攻撃であるとか、プライバシー侵害や漏洩の問題から発生する信頼の問題があると思います。この後者のセキュリティがらみの信頼問題はそれ自体が大きな問題ですので、限られた時間のなか、本日は中心的な課題とはせず、前者の問題に焦点をあてて進めたいと思います。

第2に、すでにこれまでのご発言に出ていたことですが、Eコマースには、B2B、B2C、オークションなどのC2Cの諸形態があり、信頼の問題は、それぞれの形態で異なっていると思います。問題提起での調査データは主としてB2Cのデータであったと思いますが、以下の議論としては、この3つを取り込んでいきたいと考えています。

第3に、とりあえずの議論は日本を念頭においた問題から入りますが、問題提起にもあったように、ネットワークはそれ自体グローバルなものでありますので、日本を越え出る視点も入れておきたいと思います。

牧野さんの「信頼のインフラを確保すること」、「既存の信頼のインフラを利用することが必要だろう」という指摘があります。信頼のインフラを築くのに、前からつき合いのあった電器店とか家具店との従来からある信頼をベースにして、その延長線上でネットワークの信頼の問題を考えることはできないか、という提案がありました。そうすると、グローバルやナショナルなレベルの他に、ローカル(ないしコミュナル)なレベルでの信頼問題を論ずる視角も必要ではないかという気もします。

武蔵さんが是非話をしたいといわれた内子の街づくりの話も、ローカルな話ですし、事前にいただいたご質問に、地域通貨の問題もあります。この地域通貨というのも、ネットワークを介さない、コミュニティの、主として従来型の信頼に基づく擬似取引、擬似平価に基づくサービスの交換ということで、これもローカルな、あるいはもっと人間的な関係性での信頼関係の問題であると思います。

まず議論のきっかけにということで、山岸さんからお話のあった評判システムの問題との関連で、牧野さんから、既存の信頼インフラの活用をめぐり、さらにお話をいただきたいと思います。

■牧野二郎氏
オンラインだけで信頼あるいは評判システムができるかについては、次のような事例があります。オンラインでよく経験しますが、けんかが多い、荒れると言われます。実はけんかしたときに一番良い解決法は、本人同士を会わせたり、いろいろな人に会うということがあります。オフラインという言い方をよくします。ぶっきらぼうな日本語を書く知恵者がいて、その人とメーリングリストでやりあうと喧嘩になってしますので、その人とリアルワールドで会わせてもらいました。会うとその人のイメージが頭に入り、それを基礎にメールのやり取りができます。一度マシーンが止まったので、こういうケースではどうで、ああいうケースではどうだ、どうしたら良いのだろうか、イエスだろうかノーだろうかというメールを出したことがあります。すると、空のメールが飛んできました。ところが、よく見ると、主題のところに「イエス」と書いてありました。要するに、用件が伝わればよいという発想で、私にはそれだけ言えば分かるはず、ということだったと思います。「イエス」というだけの返事が来たら、失礼な人だと思うのが普通ですが、本人を直接知っているのと、いないのとでは評価がぜんぜん違います。

また、たとえば、地元の電器屋のおやじの顔を知っているときに、そこで買ったパソコンが壊れたら、何だおまえの売ったパソコンが壊れたじゃないか、直してくれよと言える。ところが、オンラインで買って、買ったときに壊れていれば、えっ、という感じになりますね。そうすると、それからは不信感の塊です。何べんやっても直らないと、もう訴訟にまで走っていくことになります。そうしますと、よくボタンの掛け違いみたいなことを言いますが、どうも既存の信頼関係ってすごく大事ではないかと最近強く思い始めまして、その意味では、オンラインだけで、ネットワークだけで信頼を固めようというのは、ちょっと違うのではないか、要するに、既存の信頼の上にオンラインの良いテクニックを乗せて、二重構造にして支えてあげるということで考えたらどうかという感じを今、持っています。

東京で大阪人同士が大阪弁でまくしたてるのをよく経験しました。僕ら以上に意思疎通ができるなとふっと感じることがあります。そういうふうに、たとえば、出身地だけである種の信頼関係ができる、同質の文化を持っているというサインが出ただけで、もっと大きな広がりが出てきてしまう。あるいは、文化的な素養もそうかなという気はします。要するに、ある種の文化的な素養を持っている、それだけでも話が通じてその次に入れるという、そういうような部分が何かあるような気がします。

■小林宏一氏
今のご発言は、従来型の信頼関係と、新しい時代における信頼関係は、決して切れたものではなく、お互いに連動されるというか、ネット時代へも取り込んでいく必要があるということだったと思います。

さて、リスクテーキングをしてまで、何故Eコマースにコミットするかといえば、それは言うまでもなく、従来にない関係性を築き、拡張し、それによって報酬の最大化を図っていく、逆に言えば、報酬の最大化がもたらされるように期待するからこそリスクテーキングするのだということだと思います。今ほど牧野さんが指摘された、既存の社会関係を顧慮しながら将来の信頼のインフラを構想するというアプローチについて、山岸さんはどう考えられますか。

■山岸俊男氏
ネットワークも大事だけれど、人間関係も大事だと、両方必要だと思いますが、そこで止まってはやはり不十分ではないかと。それは、同じ「信頼」という言葉を使いながら、違うものが混ざっているからではないかと思います。

私の言葉では、信頼には、関係を強化する側面と、関係を拡張していく側面があって、これは違った働きをします。牧野さんがおっしゃっていたのは、関係を強化する側面でしょう。関係を強化する側面については、最初にふれたパットナムの言うボンディング型の関係資本が強い役割を果たします。けれども、その側面ばかりに眼を奪われていると、ブリッジングとしての関係資本を忘れてしまう。そうすると、困ったときに切り抜けることはできるが、ずば抜けることはできなくなります。したがって、関係資本としては、関係を強化するボンディング型と関係を拡張するブリッジング型の両方が必要であると考えます。

■牧野二郎氏
ブリッジング型というのは分かりますが、ブリッジング型の信頼というのは、今までの僕たちの言葉でいうところの信頼かのかというのは、分からないところです。リアルな関係を基礎にした信頼というのは、こらはまさしく僕たちが認識していた信頼なんだろうと。拡張型というのは、むしろエネルギーを作って、ベクトルを作って、そこにある種の合力として働くものではないのか。

この指止まれ型というような言い方をすることがあります。この指止まれで3人集まったら、3人で遊ぼうや、というような、一種の拡張型だと思いますが、全く知らない人同士が、1つの課題、1つのベクトルに集まってきて楽しむ、そういうような動きで拡張していく。そのうちに、その拡張の中で、それがある種の擬似リアルになって、また新しい信頼関係が出来あがってくる。そうすると、信頼というのは、むしろ保守的というか、現状維持的なものであって、拡張的なものというのは、もうちょっと違う概念ではないかという気がします。

■山岸俊男氏
それはおっしゃる通りだと思います。私自身は「安心」と「信頼」という言葉で使い分けているつもりですが、多分皆さんがお使いの言葉と必ずしも対応していませんね。もう1つの可能性としては、使い分けるとしたら、リスクテーキングと信頼だと思います。私が言っている関係拡張型の信頼は多分リスクテーキングだと思います。最初に牧野さんのおっしゃったのは、信頼は自由であり、そういう意味での信頼を作るには、フェース・ツー・フェースの関係が必要だと。それはその通りですが、私が言っているのは、それは大事なんですけれども、そのことと同時に、リスクテーキングをしていくことも大事なんだよということを言っているわけで、必ずしも対立するものではないと思います。

■田川義博
先ほどの問題提起で申し上げましたが、関係を強化する側面については、ネットだけではなかなか強化できないので、牧野さんのいわれたように、リアルな場とネットの場でのシナジーが働いて、信頼がどんどん強くなってくれば良いということだと思います。

ところが、さっき問題提起で申し上げたように、今の日本の社会というのは安心社会なので裏切られることが非常に少ないと。だから、取引コストは少ないが、機会費用がだんだん大きくなってきたというふうに理解しています。取引費用というのは何かといったら、取引をするときに相手を探したりするために情報を集めたりするコストです。それにプラス、取引したときに、相手からだまされて不測の損害を得るかもわからないという意味での取引コストがあります。仲間内でやっていればそういうことは余りないですから、取引コストは低い。

しかし、今、ネット市場が出てきたり、グローバル経済化になってくると、一見さんお断り的な、今まで取引したことのない人とは取引しないとか、この人しかつき合わないというような商売の仕方をしていると、せっかくのチャンスを逃してしまう。やはりそういう閉じた社会にいると、ビジネスも広がらなくなって沈滞するいうところが、今、日本が脱皮を迫られている1つの大きな課題であると思います。

そのときに、山岸理論で言いますと、低信頼者である地図型知性の人は、外に放り出されたらお手上げになってしまいます。ということで、状況をいかに的確に判断してリスクを避けていくような行動がとれるか、というところが今課題になっていると思います。という意味で、私が問題提起で申し上げたように、リスクをとって、その機会費用を下げていくというふうなところを追求していくのが今後の課題だろうと思っていまして、それでこの関係拡張の機能というのは非常に重要であると思っています。

■小林宏一
この問題は、あれかこれかの問題ではなくて、やはり牧野さんがおっしゃるような信頼のインフラに重点を置いていくと、日本の社会は安心社会を前提としたネットワーク化みたいな方へ行ってしまわないのかなという気がします。

さて、今の田川さんとの話にも絡めて、少しずつ根本的な話に入っていきたいと思います。山岸さんの言われる評判システムの例として、オークションサイトの話があります。オークションに載っていたレア本を買おうとするときに、果たして売り手は信用ができるのか、信頼が持てるのかが問題になります。E-Bayのケースでは、かつてその人が売り手になったときの取引結果(評判)が出ています。買った人がその売り手について、おおむねよかったとか、あいつはうそつきだとか、そういう評価をする。それを繰り返すことで、売り手のいわば評判が蓄積されていく。こういう過去の実績があるならば、私も注文しても大丈夫だろうという、そういうメカニズムがシステムの中に埋め込まれています。

これは要するに実績の蓄積をベースにして、見知らぬ人であってもそこに信頼を置いていくということだと思いますが、考えてみますと、ネットワーク時代でなくても、私たちがよくやるのは、これはコミュニティレベルですけれども、町医者の評判というのが出てくるわけですね。特に奥さん方は自分たちの子どもが風邪をひいたときどこにかかるかというと、井戸端会議であそこのお医者に行ったらだめよとか、必ずそういうのを持っています。

だから、町医者の評判に似たような、そういうことをメカニズムとして埋め込んだオークションサイトがあるわけですけれども、このようなことを踏まえて、全く見ず知らずの人との間での信頼形成を目指す1つの方法としての評判システムについて山岸さんのコメントをお願いします。

■山岸俊男氏
私が考えている第1の前提は、一般的信頼はこれから重要になってくるだろうということです。けれども、そのためには制度的な基盤が必要だと思います。つまり、情報が意味を持つような制度的基盤をつくった上で、初めて信頼というものが意味を持ってくる、情報探索型の社会的知性が役に立つようになってくる。そういった制度的な基盤をつくることが大切だろうということで今考えているのが評判システムです。

その評判システムの1つのきっかけになっているのは、E-Bayにおける評判のスコアです。私がワシントン大学で教えていましたときの学生で、今UCLAの先生をやっているピーター・コロックという人がいて、彼がE-Bayの評判の研究を行いました。たいへんおもしろい研究でして、評判がいい人はうそをつくというんです。実は立ち上げるときは一生懸命正直な商売をする。ところが、ある程度良い評判を蓄積すると、多少いいかげんにやっても大丈夫だと。これが私の言うインセンティブ・コンパティビリティの低い評判システムです。

それから掲示板でけんかになるというのも、これはインセンティブ・コンパティビリティの低い評判システムです。つまり、いいかげんな評判が立っている。人を中傷するような評判が立ってる。人の足を引っ張るような評判が立ってる。そのこと、人を中傷するような評判を立てたり人の足を引っ張るような評判を立てたりすることが、その人自身に戻ってこない評判システムですね。それに対して、インセンティブ・コンパティビリティの高い評判システムというのは、そういういいかげんな評判情報を提供する、あるいは中傷するような評判情報を提供すると、その人自身が困ったことになる。そういった評判システムをつくるのが非常に重要だろうと思います。

そのために一体何が必要なのかというと、これはまだ本当に手探りの状況です。我々も評判システムの実験をやっています。E-bay型の実験状況を作りました。売り手は品物の品質は分かっているが、買い手にはわからない、うその品質を示すことができるというような情報の非対称性のあるレモンマーケットにおいて、買った人間がその評判をつけます。これは大体うまくいくようです。ところが、それに対して名前を変えることができるオプションをつけます。E-Bayがそうなんですね。つまり、悪いことをやって評判が悪くなると、もう名前を変えて、別の名前で新たに始める。そういう実験を先週ちょうど始めたところですが、あっという間に落ちるんです。みんなひどい品物しか売り出さなくなります。ということで、今のE-Bay型の評判システムというのは、多分役に立たないですね。

それでは、次に、何を考えないといけないか。それをこれから本気で考えようと思っています。それは基本的には評判をつけた人間の評判の正しさスコアのようなものをつけることができるようなシステムだと思います。つまり、評判をつける人が評価される。インセンティブ・コンパティビリティが低い評判システムの典型が、大学における教官評価です。学生が教官の評価をします。学生にとってのインセンティブは何か。それは楽に点数をもらえることです。そうなると、先生方が楽に点数をくれるような行動を助長するような評価の仕方をするわけです。要するに、全優の先生は評価がよくなる。それが起こったら評判システムとしては全く役に立ちません。

評価する人間が評価されるシステム。これにかなり近いのが学者の間での専門誌の評価です。これはエディターだけではなく、審査員の評価もあります。日本では余り一般的ではありませんが、論文の評価を他の何人か、他の人の評価や指摘しているようなことは知らずに評価しています。そこで、ばかなことを言っている評価者というのは、ばかだなと言われるようになるわけです。だから、そういう評価した人間の評価の正当性を評価できるような仕組みを入れた評価システムをつくることが、これはまだ本当に手をつけたばかりで手探りなんですけど、多分必要じゃないかと思っています。

     

■武蔵武彦氏
評価する人の評価をしなければならないとすると、またその人の評価も必要になるということで収拾がつかなくなる恐れがあると思います。また、やはり日本の社会で何が問題かというと、仲間内で相互批判をするような場がないことです。学者の世界で、ごく例外的なのは学会ですが、そういうことを全くやらない学会もあります。そこが大きな問題です。さらに、専門家が持っている知識や情報を公開しない点が一番大きいのではないか、ということが気になります。

つまり、ネット社会における問題を日本はどうやって解決するかという問題は、我々が普通生活している空間においていろいろな体験をすること、これを根本的に変えなければならないということで、僕自身は言葉に責任を持つ、当たり前のことですけれども、キーワードでわかったようになると、そういうふうなことを1つ1つつぶしていくというふうな、そういう生活態度こそがまず出発点になるかなと思っています。

■小林宏一氏
山岸さんにご確認ですけど、実効性のある評判システムいうか、よりよい評判システムへ向かっての突破口というのはまだ見えていませんか。

■山岸俊男氏
効果がある方法はあります。ただ、それが現実に実行可能かどうかというのはまた別の話で、たとえばこういったシステムをつくって、アイデンティティがわかるようにすれば、たちまち正直な商売をしますね。つまり、本当のアイデンティティでなくても、これはだれだれさん、これはだれだれさんの品物というものが固定していれば、これは本当に固定した関係と同じですから、不正直な商売をすれば、あの人からは買わないと、すぐなります。そういうのは可能です。だけど、それこそもとの固定した関係に戻ってしまいますから。それ以外にどういうやり方があるかというのはまだわかりません。

■牧野二郎氏
アイデンティティをどうするか、要するに固定できるかどうかという議論で、皆さんご承知かもしれませんけれども、この4月から施行されてくる電子署名及び認証に関する法律というものがあって、認証局をつくって、そのアイデンティティを確認しようという法制度が出来上がる。それが実際に施行されますが、ある意味ではそれをどう生かすのか、要するにアイデンティティをどこで取るのかというのが、今真っ最中の議論なものですから、まだ十分確定していませんけれども、1つのアイデンティティ、要するに固定する基準といいますか、基盤といいますか、それを作ることがインフラ整備の1つとしてあるんだろうと。

それは今、山岸さんが最後におっしゃっていた既存の社会に戻るんだということではなくて、例えば私は牧野二郎という名前のアイデンティティでこういう人間でこういう弁護士でこんなことをやっている人間だというのがアイデンティティとして固められる。そうすると、私は牧野三郎という名前を名乗らない。要するに、牧野三郎と名乗ったときは、全然評価が違うんだ、あるいはあいつはにせものだと、こういうのが出てきます。

今、大変困るのは、ネットワークの中でいろんな掲示板がありますが、牧野二郎さんというのが歩いています。僕じゃない牧野二郎さんが歩いています。実は名誉のために申し上げますと、僕の知ってる限りでは、僕よりもっともっと有名な牧野二郎さんがいらっしゃいまして、牧野フライスというところの一部上場企業の社長さんが牧野二郎さんというので、全く同じ字を書くので、1回びっくりしたことがあるんです。彼のほうがよほど有名なんですが、その人が書いているわけもないわけで、そうすると、この書いているやつはだれなんだというと、なりすましだと。それを何とか防止したいというのが1つ目の固定化の問題です。

2つ目の問題というか、先生が評価する人を評価して、また循環論みたいになってくる。確かに、おっしゃったとおり、大学で先生を評価するのなら、落語家が大学の先生になるのが一番いいわけです。おもしろいし、みんな優をくれるということになれば。しかし、僕はそうじゃないだろうと思います。

どういうことかというと、蒸し返しの話になりますが、僕はリアルワールドの評価じゃないかと思います。例えば武蔵先生がいいと言ってる先生は僕は信用するという関係が出てくる。そうすると、武蔵先生が嫌いという先生を、僕は好きだという人もいるかもしれない。例えばある人が、この本とこの本とこの本はおもしろいぜというと、絶対読もうという人が出てくるし、牧野二郎がこの本とこの本をおもしろいよと言ったら、あの本だけは絶対読まないでおこうとか、一種のリアルワールドとどこかでリレーションがあって、それがどこかで評判の相対性というところにきちっとリンクしている仕組みができれば理想的だと思います。先生の評判システム、僕はこれができたら最高だなと思って聞いていたものですから、別に非難しているわけではなくて。それを完成させるためには、そういう相対基準みたいなのを持ち込んでいただけたらどうかなという気はします。

■山岸俊男氏
まさにそういう話だと思います。そのときにリアルワールドがかんでくる必要があるのかどうかというのは分かりません。かまなくてもできるかもしれませんし、かまないとできないものなのかもしれませんし。ですから、要するにだれの評価を自分は信頼できるかということが分かる形で情報が提供されていれば良いという話だと思います。

■小林宏一氏
今までの一連の議論についてまとめたいと思います。

1つは、私がやっておりますメディア論の関連の中で、メディアエコロジーというような考え方がだんだん出てきていまして、要するに最先端、最高速のネットワークやそういうものだけがメディアではないのだろうと。ひたすらそれを追っかけていってもしようがないのじゃないかと。もっと広い意味でのエコロジー的発想につながるものですが、これは本論に入る前のもう一つの話ということで論議していただきたいですけれども、Eコマースやなんか新手のものが出てくることと対極的に、先ほど私はローカルと言いましたけれども、そういうものを介在させない中で、ある時期あって忘れられがちだが、もう一度回復すべきものという、エコロジーというのはある意味で復古論の部分があるわけで、致し方ない部分がありますが、要するに直接的な関係のもとでの信頼性をもう一度大切にしようと。

ここらになると、ひょっとしたら山岸さんからは安心社会への逆行ではないかというようなご批判が出てくるかと思いますが、武蔵先生のレジメの中に内子のまちづくりという話がありまして、これは極めてローカルな試みだろうと思います。地域通貨というような、要するに<メカ>化し、ネットワーク化し、電子化してくる趨勢に対抗して、もっと原点、ローカル、言うならば昔の共同体的信頼みたいなところに立ち戻ろうとする傾向があります。その実例として、武蔵さんのほうから内子の事例をどうぞ。

     

■武蔵武彦氏
地域通貨がいろんな形で注目されています。それは基本的に顔が見える間柄の中で助け合いをやっていたところで力を発揮してくる。利子を生まない、実際に労働力の等価交換というふうな、使わなければ意味がない、そういう形で考えられたのが、地域通貨です。けれども、それが意味があるのは、顔が見えるような関係が維持されているからではないかと思います。

実際、世界遺産になりました白川郷では、結というやり方を今までやっていました。茅葺きの屋根をかえるのが大変ですので、村総出で、みんな作業します。助け合いだというふうに、おばあさんが言っていますが、実際そういうふうな形でやっています。お金を払ったりしません。そういうやり方が基礎になって、白川郷の近所でも地域通貨というふうな結カードを、やろうとしています。僕が思うには、持っていても使わなければ意味がない、ほかで使えない、あるいは利子がつかない、いろんな意味で普通の通貨と違う。しかし、それがあることによってものを頼みやすくなるとか、ちょっとしたことも通貨でいろいろ頼めるというのは非常にプラスだろうと。人の迷惑になるから助けを呼ばないというふうな、そういう遠慮がなくなるという意味ではプラスだと思います。

問題はそういう助け合いが普通になされているという、そういう伝統文化、これは非常に大きいと思います。そのことが実は今後のネットワーク社会における信頼にもつながるのかなと思います。助け合いは、当たり前のことのように思いますが、そこまでやるのかというふうな、そういうことはこれまで十分やってきたわけですね。

その1つが、内子町という四国の山あいの人口1万人ちょっとの小さな町です。人口が流出している、そういう町ですけれども、町並み保存運動というので、随分前から大正時代の白壁の町並みを保存しています。大正時代の商売が隆盛だったときに、その地域の人形歌舞伎、文楽を招くためにつくった歌舞伎座を保存して、それを今活用しています。1年間に80回公演を行っています。四国のお遍路さんの道になっていて、問題はその町並み保存運動、これは信州の妻籠宿とか、いろんなところで成功しています。それと同時期に成功し、それにとどまりません。村並み保存運動をやって、水車小屋を保存したり、町営の農業体験をする。有機農法などを行っていますが、そういう宿泊施設を町営で持っている。

そういうふうな町並み保存、村並み保存の上に、エコロジー、森を守ろうという運動をやっています。同時に農業も大事にしようということで、農産物を売っていますが、おばあさんが農産物を売って、そして売れ残ると、どんどんインターネットで値段を下げたりしています。そして買った人からお礼がくると非常に嬉しいと。実際に僕が言いたいのは、古いコミュニティを守りながら、伝統文化を大切にしながら自然も守り、そしてインターネット、あるいはコンピューター、そういうふうなのを必死になってやっている、そういう町があるということをご紹介します。

■小林宏一氏
武蔵さんの前半のお話で、顔が見える関係性というあたりが、これからの締めに向かっての1つのポイントになるかと思います。

先ほど、山岸さんは自生的な秩序の形成ということをおっしゃいました。山岸さんは前から日本の集団主義的な安心社会を、ある意味で克服か、脱皮かしながら信頼社会へ向かわなければならないということを提唱されておられるわけです。その一方で、例えば評判システム1つにしてみても、今の技術を使って実効性のある評判システムをつくるというのは、ある意味で非常に難しいことが分かりましたが、自生的な秩序形成というのが、とりわけ日本の社会の中でどこから手をつけていったら可能なのか、突破口はどこなのかというあたりのお話をお伺いします。

それからきょうもう少し議論したかったことは、自律的、自生的秩序作りに対して、ネットワーク社会をオーソライゼーションや、いろいろの外部的な、あるいは制度的な整備によって、他律的にそういう信頼の基盤を作っていこうという課題もあります。例えば先ほど出てまいりました電子認証制度、それから企業の格づけ、これも当事者が相互評価ではなく、例えばスタンダード・アンド・プアーズが企業の格づけをやるように、どこか権威付けされた組織がここは信用できるというようなことをやる。

それからさらに他律的なものとしては、規制とか、罰則とか、逆に、育成策、振興策、規制緩和策といった法制度的な対応する。それから何かのダメージが起きたときには保険的な手段で安心感を与える。それからこれは有効かどうか議論の分かれるところでしょうけれども、例えばネチケットを教えるとか、いわゆる<ネティズン>を育てるみたいな形での啓蒙教育活動があります。これはやはり他律的に外部にそういう環境を作り上げることによって、信頼向上のバックアップをするというか、信頼社会の基盤づくりをするという、そういう動きといいましょうか、方策が一方にあるだろうと思います。

そうすると、いわばみずから殻を割るような形で、安心社会から信頼社会へ、自律的な秩序形成の努力を重ねていくという指向性と、外部からいろいろな形で働きかけ、環境を作って、自律社会へ誘導するというか、その舞台をつくるという2つのことが、二者択一ではなく、両者相俟ってということになるのではないでしょうか。山岸さんのほうから、自律的な秩序形成というようにおっしゃる中での、今後の例えば日本安心社会から信頼社会へ移行していくビジョンのようなものをお話しいただきたい。

■山岸俊男氏
その前に、1つだけコメントしたいと思います。私の話が多少誤解されている部分があると思いまして。それは自律的知性、信頼型社会と言ったときに、それが対面型の社会ではないと私が主張しているように誤解されたかなと思いました。コミュニティ、つまりパットナムが言っています例えばボーリングチーム、これが私の考えています自生的知性の一番基本になります。そういったものを育てていく。パットナムとよく話したりしたときに、彼はコミュニティということを非常に重視していました。

そのときちょっと混乱しているなと思うのは、彼は、また、多分、欧米の人たちはコミュニティというものをすごくロマンティックなものとして考えます。そのときに、日本的な人々を拘束するものとしてのコミュニティというものを頭に入れてなくて、自分たちが作っていく集団としてコミュニティを考えています。ですから、コミュニティというものを主張するということがあると思いますので、私の主張はそちらとは一貫します。けれども、そのことは必ずしも従来型のコミュニティを意味するものではないということです。

その突破口の話と、その次の話になりますが、私にとっては単純な話で、それは制度的な基盤の確立だと思います。ですから、これは対立するものではないと思います。自律的な自生的な秩序の形成が可能な情報が意味を持つような制度的な基盤をつくっていく。そのことが多分今一番必要なことではないかと思います。

■牧野二郎氏
自律的、内面的な、あるいは自生的なという意味で言うと、今までのさまざまギルド社会を守る規制というのを緩和しよう、あるいは撤廃しようというのは、山岸さんがおっしゃるような、本当に自由な形での我々を拘束するものでないコミュニティをつくる上での必須の前提条件だと思います。ですから、その意味で自律的な形成を促すためには、規制緩和じゃなくて撤廃だと思いますけれども、撤廃をしなければいかんという部分があるんだろうと。それが自生的なものを自ずと作り出していくだろうというのが1つあると思います。

私は今すごく関心があるのが、電子署名、認証の関係のシステムと、それから個人情報保護のシステムです。きょう、この中にもあったと思いますが、、必ずアウトローがいます。非常に少ない数ですけれども、数%のアウトローが全体の信頼のシステムを破壊しかねないという部分が存在します。そのときに我々は非常にロマンチックに考えていると、ロマンチックな自治システムというのは意外と脆かったりします。そうすると、やはりアウトローがアウトローとわかる、そして破壊者は破壊者として認定ができるというシステムは、インフラとして作らなければいけないだろうと。その意味では法的な制度として電子署名と認証にかかわる法律を作った。僕はこれはすばらしいインフラだと思って評価しています。これが実践されなければ我が国は電子商取引もできないだろうし、これからのその意味でのコミュニティ理論もなかなか成立しないと思うぐらい、僕は高く評価しています。本来、僕は法律反対派でありまして、余り規制法は好きではないんですけど、これはぜひ評価したい。

それから、この通常国会で恐らく通るだろうと言われている個人情報保護法ですが、企業の皆さんが大変心配しておられる部分です。これは今の企業が正当な仕事をしている限りにおいては全く問題はない法律で、なおかつ、どうも最近の情報では2年間ぐらい準備期間があるそうですから、十分対応できます。

ところが、問題はアウトローです。要するに、情報を売買する、名簿売買する、皆さんには出さないよと言っておきながら、裏で名簿を50万、100万で売ってしまう。同業者に売るというようなことを何とか規制しないと信頼関係はできない。私の情報がいつの間にかウェブに上がっているとか、そういうことが出てきてしまう。そういうものを規制するには法的規制が必要だし、ある意味で罰則も必要になってくるだろう。それは最低限インフラだろう。これは余り強化してはいけないし、強調してはいけない。ただ、最後の最後の歯どめとしてきちっと守っていなければいけないだろうと思っています。

     

■武蔵武彦氏
教科書に書いてあるからとか、マスコミで言われていることについて、本当にそうなのかなという態度を、これからのネット社会において絶えず身につけていただきたいなと思います。

■小林宏一氏
それでは、あと残り5分ぐらいですので、きょうの議論の総括を、田川さんにお願いいたします。

■田川義博氏
個別の話について先にコメントします。
まず最初に、アウトローを徹底的に排除しなければいけないというのは、水の中にちょっとでも不純物が入っていれば毒が蔓延しちゃうという意味で、これは徹底的に排除しなければいけない。少数のアウトローに対しては、やはり法的なものに頼らざるを得ないと思います。ただ、これが過剰にいきますと、さきほど申し上げたように、法があるから守るんだというか、人々が協力して良いものを作っていくという、そういう協力関係のフィーリングが減ってしまいますので、これはあくまでも少数のアウトローに対するプロテクトだということを押さえておくことが大事だと思います。その信頼のインフラができたら、次に先ほどから山岸さんがおっしゃったような評判のシステムを作っていく必要があります。

現在では、ネットで情報検索すると、大量の情報が入手できます。ある問題のにわか権威者に、表面だけですけど、なれます。そういう意味では取引コストとか、情報サーチのコストが劇的に下がります。けれども、その情報が正しいかどうかの保証は全くありません。これはよく放送の世界で、放送の番組はギャランティされているけどインターネットの情報は玉石混交だというのと同じことだと思います。そういう意味で、下手すると、その情報を信じて大損しちゃうかもしれない、損害を受けるかもしれないというようなことが当然発生します。

そこで、先ほどから山岸理論で言われている、信頼ができるかどうかということをジャッジするためにやはり情報が必要なんだと。その情報というのはどういう情報なのかというのを考えると、1つは評判のシステムというのはあると思います。ただ、ネットの評判システムでは評判はすぐ広がります。先程の話で言えば、特定の誰かが言ったからそれを信頼して購入するという意味での評判システムは、際限なく拡大するのではなく、一定の限度でおさまって循環していくと思います。ただし、ネット上では基本的には、良い情報しか集まらない。悪い評判情報は、先程言われたように、アイデンティティを変えるということになるので、悪い評判のシステムをネットで蓄積して、それを活用するというのはなかなか難しいという意見があり、わたくしもそうだなと思います。

今、わたくしが注目しているのは、オークション・サイトで詐欺事件が起きたとか、好ましくない取引が行われたとかが問題になって、有料化するかとか、匿名性をやめるかというふうな動きがあります。新聞報道で見ると、利用者の6割が、もしそうなったら利用しないと言っていまので、かりに有料化した、匿名性を廃止するとなった場合に、オークション・サイトがどういう影響を受けるのかについて、注目したいと思っています。

コミュニティに対する考え方は日米で確かに全く違っていまして、日本のコミュニティというのは、その構成員を非常に拘束するというコミュニティです。アメリカのコミュニティはどちらかというと気の合ったというか、志を同じくする者が集まるコミュニティというようなことです。今のネットの社会でも、安心して暮らせる空間というのは人間にとって必要ですので、ボランタリィコミュニティのような、ネットで自発的に参加するというようなコミュニティの可能性を追求していくというのも、ネットにおける信頼を確保するための1つの方向ではないかと思っております。

■小林宏一氏
私のほうから補遺として2,3お話をして締めたいと思います。

1つは、私は社会学出身ですので、そもそもアメリカ国家のベースになったのがコミュニティであるわけですから、それはある意味でボンディングの部分もあるかもしれませんけれども、外に広がっていくという、あるいは大きなアメリカを形成するユニットとしてあったわけで、決して集団主義的ではなかったというふうに理解します。先ほど山岸さんは、ある種のロマンティシズムと言われました。米国では、ピルグリム・ファーザーズの頃からコミュニティが始まっているのに対して、日本は村落共同体から来ているので、典型的なボンディングの内と外を峻別する地域集合体であった。

そういう意味では、今、田川さんがちらっとおっしゃったように、恐らくそれにモデルを求めていくとどうしようもなくなります。私の先輩で、早稲田大学の佐藤先生が「ボランタリー・アソシエーション」という言葉を使っています。日本はコミュニティと言うと、どうしてもどろどろした共同体的な部分に戻ってしまうので、むしろボランタリー・アソシエーション、もっと具体的に言えば、たとえばNPO的なところに私たちはある種の期待をかけるべきではないのかなというようなことを、私は個人的に考えております。

大変広い領域にわたるところを、2時間半という限られた時間の中でやらざるを得なかったわけですが、山岸さんからお話のあった自生的な秩序の形成努力を続けて、安心社会から信頼社会への移行をどう試みていくか。それをある意味で後押しする制度的な環境をどのように整えていくのか。

そういうことを考えていきますと、まだEコマースにおける信頼基盤確立は、どうも日本社会の構造改革と表裏関係をなすような感じで、それほどたやすくはないという感じではあります。もし皆様方が、今日のディスカッションを通してこの問題をめぐっての輪郭をとらえていただけたら、こちらの所期の目的が達せられることになるのですが、如何だったでしょうか。