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マンスリーフォーカス
No.84 July 2006

世界の通信企業の戦略提携図(2006年7月10日現在)

249. マイクロソフト経営の転換(概要)

 ビル・ゲイツ(1955.10.28生れ)はハーバート大学生の友人ポール・アレン(1953.1.21生れ)と1975年にマイクロソフトを創立して30年、後二年で日常業務から退くと発表した。マイクロソフト会長職と筆頭株主の地位は続けるが、精力を世界最大の慈善事業団体ビル/メリンダ・ゲイツ財団(BMGF)による途上国健康・教育問題に振り向ける。

集団指導体制

 ビル・ゲイツ引退後の責任体制は2005年9月発表の3部門組織によるもので、S.バルマーCEOの下(1)オペレーティング・システム(OS)はK.ジョンソン社長、(2)オフィス製品はJ.レイクス社長、(3)娯楽及びハードウエア事業はR.Jバック社長が指揮、2006年末発売新OSウインドウズ・ヴィスタ(Windows Vista)とX360ゲーム機関係はJ.オールチン共同社長が完了まで責任を負う。最高技術責任者(CTO)に任命されていたレイ・オジーはビル・ゲイツを継いでチーフ・ソフトウエア・アーキテクト(CSA)に、C.マンディは最高研究戦略責任者(CRSO)に今回それぞれ任命された。

 30年前の共同創業者ポール・アレンはビル・ゲイツと同じシャトル生れ、レークサイド高校で二つ年下のコンピュータ狂ゲイツと親しくなり、高校のミニコンを専用の上ワシントン大学コンピュータ研究所に忍び込み、見つかりはしたが二人無償で学生にコンピュータの使い方を教えることとなった。高校卒業後アレンはワシントン州立大学に進み、パソコンの商用ソフトを書く夢に取りつかれて2年で中退し、1975年にゲイツを説得してマイクロソフトを設立した。1980年にBASICソフト販売を始めたマイクロソフトのためシアトル・コンピュータ・プロダクツ(SCP)からQDOSを$59,000で購入する交渉に先鞭をつけたのはアレンである。
マイクロソフトがIBMからパソコンOS制作を受注し、QDOSを原型にMSDOSを制作してソフトウエア企業の基礎を築いたことは歴史的である。ポール・アレンは1983年に癌に倒れ放射線治療と骨髄移植で完治したものの2000年11月マイクロソフトを退職し以後戦略相談役に止まった。アレンは情報流通よりも石油流通に関心を持ち、プレインズ・オール・アメリカン・パイプラインを支配するエネルギー企業プレインズ資源を$4.6億で買収し、シアトル市営不動産事業バルカンのエナジー子会社を通じて天然ガス貯蔵事業に$2.5億投資した。しかし、情報通信事業への関心を全て捨てた訳ではなく、チャーター・コミュニケーションズなどのメディア事業、STBメーカーのディエゴ、ハリウッド映画撮影所ドリームワークスなどにも投資している。
1986年に慈善事業団体ポールG.アレン一族財団を設立し毎年約$3,000万シアトル市・ワシントン州・オレゴン等北西州の非営利文化学術事業に支出しており、また1990年代にプロ籠球、プロ蹴球のオーナーとなり、シアトル市ローズ・ガーデン体育館に出捐した。ポール・アレンの資産の多くはMSDOS特許権の持分に基づき、世界の富豪2005年No.6にリストされる地位から来ている。

 パソコン時代の色が薄れインターネット時代の風が力を増すにつれマイクロソフトの経営は順調だが、既定のOSやオフィス製品を超えた新市場の攻め方になるとゲイツの後継者に委ねなければならないし、スティーブA.バルマーCEOがその頂点に立つ。
バルマーCEOはゲイツと同じ年(1956年3月生れ)、フォード社勤めの父親の下デトロイト近郊に育ち高校時代アメフトのマネジャーだった。ハーバード大学2年生の時ゲイツと同級で大学新聞記者として知り合った。数学・経済学士取得後プロクター・ギャンブル(P&G Co.)に2年勤めスタンフォード大学院ビジネス・スクールを中退して1980年マイクロソフトに入社した。業務運営・OS開発・販売・サポートなど様々な部門を経験した後1998年7月に社長に昇任、日常業務を指揮した上20001月に任命され、全世界を通じて社員と事業に会社の使命を浸透させ可能性を最高に発揮させる経営責任を負ってきた。バルマーの人柄は生気溢れ、仕事熱心、面白くて真面目、ボルテージ高くダイナミックで、「一口で言えばマイクロソフトの指導性・ビジョン・精神を体現した人」と報道資料に記されている。

 エコノミスト(Economist2006.6.24)「魔法使いオジー(Ozzie the wizard)」によれば、ビル・ゲイツの生涯で自分よりコンピュータ・ソフト能力が優れていると尊敬し後継者にしたい個人はアップル・コンピュータ創始者のS.ジョブス(1955.2.24生れ)だが、マイクロソフト覇権確立過程で犠牲にした上、アップル復帰後は音楽事業に打ち込んでいるので、次善の人としてレイ・オジーを選んだと思われる。
レイ・オジーはビル・ゲイツより1月若く(1955.11.20生れ)、ジョブスより9月若いが、パソコン時代立上げの功績によりB.ゲイツ・S.ジョブスと共に「コンピュータ歴史館」の殿堂入りしているからである。

 レイ・オジーはシカゴ近郊イリノイ州クック郡パークリッジ育ち、1979年イリノイ大学アバナ・シャンペーン校の工学部を卒業したが、大学のメーンフレームに接続する端末を通じて手作りで学友とE-mailやInstant messagingを楽しんだという。データ・ゼネラルでLAN開発に従事した後ソフトウエア・アーツに移って表計算ソフト「ビジカルク」開発を担当し、ロータス開発にスカウトされソフト開発に従事した時、レイ・オジーはまだWord Wide Webの無い時代に今日のWiKiWikiWebに近いネット上の「協働の場」を提供した。これが「ロータス・ノート」のアイデアで、伝え聞いたビル・ゲイツは他人のイノベーションに対する羨望と感嘆の情を抱いたようである。レイ・オジーは1984年独立してアイリス社を設立しアイデアを「分散網を通じた人間とコンピュータの協働」という次の段階に進めた。これが後に「同一レベル(P2P)」と呼ばれるサーバーを経由しないデータ交流・共有機能で、音楽の世界でのナプスター、IP電話サービスでのスカイプに活用される。アイリス社は1994年にロータス開発に買収され、1994年ロータス開発がIBMに買収され、B.ゲーツはレイ・オジーがIBM傘下に入ったので不安になった。IBMが発売した「Lotus1-2-3」は表計算ソフトの王者となり、その原アイデアの功績によりレイ・オジーは1995年にPCマガジン「時の人(Person of the Year)」に選ばれソフト業界のカリスマ的存在になった。
レイ・オジーはIBMと別れ1997年にグルーブ・ネットワークを設立しインターネット技術開発プラットフォームである「グルーブ・バーチャル・オフィス」、つまり「お互いの詳細データを交流・共有した共同作業を可能にする」グループウエア「グルーブ」を発表して2002年に完成したが、ビジネスとしては成功せず2005年にマイクロソフトに買収された。

 B.ゲーツはレイ・オジーに惹かれる理由として、自分がソフトのサエよりもビジネス戦略に優れ,それが名声としては今一なのに「レイはエンド・ユーザ経験について信じられない発想をする」と語る。もう一つはオジーの人柄が自分やS.ジョブスと反対の極にあることで、B.ゲーツがキイキイ声でいつも人を苛立たせんばかり、S.ジョブスがピラミッドを建設したラムゼスのような自信に満ちてるように見えるのに、レイ・オジーはいつも仏陀のような微笑みを浮かべ、きついことでも柔らかく深い声で述べ人を安心させるのである。
レイ・オジーの穏やかさと芸達者、アウトサイダーであることがマイクロソフト大変革のベストなリーダーとB.ゲーツの目に写る。B.ゲーツはここ数年マイクロソフトの将来に関する破壊的技術革新の心配に取り憑かれてきた。ミニコンで急成長し巨人となったDECがパソコンで沈没させられたように、グーグル式ビジネスモデル「ウェブ・ブラウザーを通じてタダでソフトを利用させ自分は広告収入で稼ぐ」が成功すればインターネット技術によって従来のマイクロソフト商法は破滅するとの心配である。2005年にマイクロソフト入りしたレイ・オジーが所感を記したメモ「インターネット・サービスの混乱」をB.ゲーツに提出したのが引き金となり、幹部宛B.ゲーツ会長電子メール「押し寄せるインターネットの波」となり、マイクロソフトの新しい変革が始まった

慈善事業のM&Aはモデル?

 マイクロソフト創立11年目に初代ウィンドウズを発売、翌1986年ナスダック市場に株式公開してパソコンOS業が軌道に乗った1994年にB.ゲーツはMS社員のメリンダ・フレンチと結婚した。競争法違反事件を和解に漕着けたら和解違反で提訴され独禁法違反判決が下りEC競争法違反事件も併行するなかで、B.ゲーツは個人資産の株価値上がりで世界一の富豪となった。ライバルに対する強引な営業手法から「悪も帝国」呼ばわりされたからか、共同創業者ポール・アレンが一足先に慈善事業団体を創立したのを見習ったのか、ゲーツ夫妻は2000年にMS株式を元手にビル/メリンダ・ゲイツ財団(BMGF)を設立して共同会長職に就きパソコン寄付やワクチン接種を中心とした慈善活動を始めた。以来OSデファクト・スタンダード確立と関連ソフトの囲い込みで社業を隆盛に導き、米フォーブス誌によれば2005年末個人資産$500億と世界の富豪No.1を続けながら、慈善事業のマネジメントにも熱中してきたのが、2年後篤志家専念と区切ったのである。

 因みに2005年世界の富豪番付No.2は米国の投資会社バークシャー・ハザウェイを率いる著名な投資家ウォーレン・バフェットである。彼は農村地帯ネブラスカ州オマハを本拠に投資会社バークシャー・ハザウェイを創立、地方新聞・消費者製品・石油関係などに投資し、また企業統治と投資の常識についてガイドラインを示しつつ株式の徹底した長期保有戦略で財を築き1990年代から富豪番付の上位にいる。そのW.バフェットが2005年末個人資産$440億の85%$374億をBMGFに寄付した(2006.6.26発表)。
W.バフェットには2004年に亡くした妻スーザン、長女スージー(52才)、長男ハワード( 51才)、次男ピーター(48才)の家族があり、それぞれに既に財産を分与している。亡妻の名を冠した「スーザン・トンプソン・バフェット財団には家族計画、核非拡散のために$60億、環境保全の「ハワードG.バフェット財団、低所得家庭教育の「スーザン A. バフェット財団、ピーター・バフェットの教育・人権問題の「ノボ財団}には各$30億づつ合計$150億である。自分の家族に対するより遙かに高額の寄付は注目される。分与も寄付も全てバークシャー・ハザウェイ株式の移転だが、一回でなく毎年小額繰り入れの形で行い、現在75才のバフェットが万一亡くなる時完了してなければ一定率割引で完済する周到さである。

 何れにせよ$300億強の寄付が移る結果BMGFは資産額は$600億を超え、連邦法の規定に従い財産の5%を財団の活動費に回すとすれば年$30億もの資金を活用できる。ユネスコ(UNESCO)の年間予算が$6億強にとどまるので、とてつもない民間援助機関が出現することになる。W.バフェットはBMGFの評議員になる。

 W.バフェットとB.ゲーツは1991年に出会って以来の親友でありビジネス・パートナーで旅行したり定期的にオンライン・ブリッジしたり、気心が分っている間柄である。エコノミスト(Economist2006.7.1)記事「ビランスロピー(Billanthropy)」は「もし貴方が世界第二の富豪ならば、貴方が苦労して蓄えたカネの面倒をみてもらうベストの人は貴方より稼ぎの良い世界一の富豪の筈だ。W.バフェットがこの洞察に従った結果史上最大の慈善事業資本が誕生したのだ」とする。W.バフェットは慈善事業団体管理者は被援助者を品定めする権力を好む恐れがあると見て、家族の関係する財団よりも現に投資収益を上げながら財団も切り回すB.ゲーツの財団を優先した。B.ゲーツは子々孫々まで自分の名を伝えると信じた慈善事業団体が実際は創立者の死後硬化し本来の目標を見失いがちと見て、自分の生きてる間に先ず稼いだカネを慈善事業に投資した。虚栄を排し真に篤志家的な篤志家を求めるB.ゲーツは篤志家ベンチャーと言える。

 外国人の目には、アメリカ資本主義は巨額の富と大きな不平等を生み出し冷酷に見える。
しかし不文律には黙契が含まれ勝者が富の一部を割いて敗者に埋め合わせする。19世紀資本主義の偉人カーネーギーやロックフェラーは、利益率高く税率低く労組が弱かった時代の典型であり、B.ゲーツとW.バフェットの創り出したものは慈善事業財団を慈善の規律と革新の源とするグローバル化時代の新モデルではないだろうか。

250. 通信機メーカー再編成第二弾(概要)

 大手通信機メーカー仏アルカテル(Alcatei SA: ALA)と米ルーセント・テクノロジーズ(Lucent Technologies Inc: LU)の合併(2006.4.2合意)に引き続き、芬蘭ノキア(Nokia Corp.: NOK)と独シーメンス(Siemens Aktien: SI)が通信インフラ機器事業を統合し新会社ノキア・シーメンス・ネットワークス(Nokia Siemens Networks:NSN)を折半出資で設立することになった(2006.6.19発表)。

 ノキアの通信インフラ機器事業は携帯電話網向けに特化しており2005年12月通期の売上高は66億ユーロ($82.5億)とシーメンスの同事業2005年12月通期売上高92億ユーロ($115億)より少ないが、シーメンスは最近受注低迷し利益率も低く、再建方針もモバイル・携帯情報端末(PDA)・企業向け無線LANの選択未定などで遅れているため、新会社トップ はノキア側が出して本社をフィンランドに置き、S.ベレスフォード・ウィリー執行副社長兼ネットワーク本部長(Simon Beresford-Wylie, EVP and General Manager of Networks, Nokia)を新会社CEOにして主導権を握った。

 2005年売上高ベースで通信インフラ機器市場シェアNo.1は、次図の通り、瑞典メーカーエリクソン(Telefon AB LM Ericsson: ERICY)で、ノキア・シーメンス・ネットワークス(Nokia Siemens Networks:NSN)は、アルカテル+ルーセント・テクノロジーズ(ALA/LU)の$250億弱(市場シェア19.6%)に次ぐ$200億弱(市場シェア18.4%)の世界第3位だが、2010年までに従業員数約6万名の15%をレイオフするコスト削減効果$20億を見込んでおり、ノーザンテレコム(Nortel)、モトローラ(Motorola)など下位メーカーにプレシャーをかけると思われる。

図:エリクソンを目指せ(Watch out, Ericsson)
2005通信機器市場シェア%

<出所>Economist(06.6.22)"Twisted pair"

<注>*は合併手続未完了を示す。Ericssonには2006.1.1発効のMarconi社携帯電話部門買収分を含む。CiscoSystemsには別途サーバー事業16%がある。

 ノキアのO.カラスボ新社長兼CEO(Olli-Pekka Kallasvo, President&CEOof Nokia Corp)は「世界市場で勝ち抜くためには規模の拡大と製品ラインを充実させることが必要。シーメンスとの統合はそのための効率的な手段になる」と語った(2006.6.19)。
一方シーメンスのK.クラインフェルトCEO(Klaus Kleinfeld, CEO of Siemens AG)は2007年4月までに通信インフラ機器事業損失0方針を出したのに、赤字ユニット切り出し折衝(希望価格$15-20億)は加ノーザンテレコム(Nortel)や米アヴァヤ(Avaya)と決着せず、企業網ユニット独立の噂が流れている。携帯電話機事業は既に台湾のOEM(Original Equipment Manufacturing)明基電通公司(BenQ Corp)に売却済みで(2005.10.1BenQ Mobile発足)2006年10月に精算を完了する予定だが、上得意だったモトローラが発注先をコンパル(Compal)に切替えた後遺症が完治しないため、シーメンスは携帯電話機事業売却に伴う受取り現金なく終了する見込みである。

251. 中国の意向に従う香港電気通信業界(概要)

 香港の中国返還(1997.7.1)から満9年、基本的には「一国二制度」は健在だが中国への経済依存度が強まり香港独自の競争力に翳りがみえ、経済の浮沈は中国次第の流れが定着してきた。香港政治家の希望は中国本土に踏みにじられることに慣れているが、地元通信企業PCCWの株式売却売却問題も中国政府や本土通信企業の意向に沿わないと解決しない。

リチャード李とPCCWの生い立ち

 リチャード李(本名リー・ツァー・カイLi Tzar Kai)は香港有数の長江財閥の当主李嘉誠(Li Ka Shing)の次男(39才)で、李一族が始めた衛星TV局STARを1993年にメディア王R.マードックのニューズ社( NWS)に$9.5億で売却し投資会社PCDを設立、払い下げで海岸通りを入手してIT用地サイバーポートを興した。次の挑戦は情報通信事業でシンガポール・テレコム( SGT)が折衝中のC&W 子会社香港電話(HKT)の獲得を狙い、PCDを李嘉誠を代表とするPCCW(Pacific Century CyberWorks Ltd)に改称のうえHKTと一体化する提案を行い同意を取り付けた。当時SGT折衝は初期の段階でC&Wは然るべくあしらいながらシンガポール政府の影響力に躊躇していたところにリチャード李が飛び込み、後ろ盾の李嘉誠を感じさせず若さ丸出しの企業家精神で押したのでPCCW株式+銀行融資$110億=合計$280億の合併商談が成功したようである(2000.8.17合併)。

 1990年代のドット・コム企業でなくHKT買収で香港一の大企業に成り上がったPCCWは社名をPacific Century CyberWorks LtdからPCCW Ltdに改称し株式を公開した(2002.8.9上場登録名PCW)。ところが株価は不況と競争激化に伴う電話収入の低迷、ISPやブロードバンド投資のコスト負担で2000年ピーク時から2003年に96%下がり、2002年と2003年を通じて香港証券取引所で利回り最低の優良株となった。

 PCCWは2002年7月に香港第2位の携帯電話会社CSLの持株40%を豪テルストラ(TLS)に売却して通信企業として固定系専業となったが、最近「トリプル・プレー」が香港にも登場し「クァトロ・プレー」など融合サービスの展望が脚光を浴びてきたため、香港最小の携帯電話会社サンデー・コミュニケーションズの株式60%を買収した。
一方、中国四大基礎電信事業の北部会社「中国網絡通信(China Netcom Group Corp : CN)」は遅れていた香港進出を挽回するため株価低迷が続いていた時(2005年1月)に気前良く1株当たりHK$5.90でPCCW株式20%を取得し公開会社のコントロール権限には達しないが、重要事項変更の拒否権は確保した。ただしPCCW-CN提携を演出したE.ティアン中国網絡通信CEOが職を去り提携に反対だったZ,チュンジアン会長は株価値下がりに伴うPCCW株資産減少に不機嫌と言う。

■PCCW株は中国流にあしらわれる

 この春広帯域サービス利用TV実験NowTVが始まって明るさは出てきたところで、リチャード李PCCW会長は株式売却の意思を明らかにした(2006.6.19)。PCCW資本構成は、李個人3%、李支配シンガポール上場PCRD23%、残り75%は中国網絡通信20%を含む一般株主で、PCRDは李100%所有パシフィック・センチュリー・グループ持株会社の75%所有なので、リチャード李個人の判断でPCCW株式は売却できる。
このの発表に対して、早速二つの未公開株式公開ファンドが反応するとの噂が流れた。第一がオーストラリアのマカリー銀行、第二が米国のテクサス・パシフィック・グループ・アジアユニット(TPG-Newbridge)でいずれもPCCW純資産額を$70億と高めに評価しそうとだしてPCCW株価(HK$5.60=$0.72)は8%上がった。PCCW取締役会(2006.7.3)で承認されたリチャード李は「協議は和やかなもので月末には決着しよう」と述べた。

 エコノミスト(Economist 2006.7.8)「干渉と言えば干渉」によればリチャード李の資産売却を止める法律上の障壁はない。香港には電気通信企業の外資制限は無く、事業者数が減り競争が鈍化する場合に売却差止め規制がかかるだけ。四大電気通信事業者の一つとして中央政府の直接指揮下にある中国網絡通信(China Netcom Group Corp)はPCCWの資産が外資の手に渡ることを望まないとの声明を出し、広報担当は「我々はPCCWに何の変化も望まない。香港人が所有し運営するPCCWの中核資産が変化して欲しくない」と述べた。地元有力企業や大立者がPCCW経営に参加して外資の影響力を中和する妥協策が待望された。

 ところが地元金融界の調整役フランシス・リョウなる人物が登場して一変する。リチャード李は「PCRD保有PCCW株式23%を香港の投資銀行家に売却することで合意したと発表した(2006.7.10記者会見)。
エコノミスト(Economist 2006.7.15)「貴方の父親は誰?」によれば、香港の既存電気通信企業PCCWの乗っ取り合戦は厳密に言って始まりもしないうちに終わってしまった。リチャード李はPCCW株式2%22.75%を1株当たりHK $6.00、総額HK$91.6億($11.8億)で売り、しかも取引完了は2007年末、マカリー銀行とTPG-Newbridgeの応募したい希望は皆殺しされ。リチャード李は会長を辞任する。それもこれもフランシス・リョウの出し抜けの登場による。

 ランシス・リョウは永らくシティー・グループ・アジアの財務担当を勤め、1990年代に中国本土企業の香港上場”レッド・チップ”創出に参加したベテランで、李嘉誠の贔屓筋でPCCW-HKT合併にも協力した。それだけに中国網絡通信、中国共産党政治局の意思が背後にあり、リチャード李も従ったと思われるが、もう一人背後にあるのは李嘉誠の意思であり、ハチソン・ワンポア(HWL)会長を承継した長男ヴィクター李のように落ち着きのある人物にしたいとの見方がある。

 以上、本稿では中国網絡通信(China Netcom Group Corp)が頻繁に登場したが、次表の通り、世界の情報通信サービスプロバイダー番付では第31位である。

表:世界の情報通信サービスプロバイダーTop31社(2006.6.30現在)

<寄稿> 高橋 洋文(元関西大学教授)
編集室宛 nl@icr.co.jp
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