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志村一隆「ロックメディア」
2008年10月掲載
ロックメディア 第18回

コンテンツ・ベンチャー・インタビュー
(株)サノウ 石川篤代表取締役社長


志村一隆(略歴はこちら)
石川篤 [略歴] [ブログ]
1998年 千葉大学工学部建築学科卒業
1998年 (株)サイバーエージェント 第1号社員
2005年 ウノウ代表取締役副社長
2008年 サノウ設立、代表取締役社長就任

サッカーひと筋の少年時代、自分を極限まで高めるのが好きだった

− 生まれはどちらですか?

 埼玉県の西川口の病院です。母親の実家が蕨市にあったので、小学校1年くらいまでそこにいて、そのあとは、両国で育ちました。高校も両国高校です。父親は郵便局に勤めていて、母親はシャープの子会社で働いてましたね。

− 少年時代はどんな感じでした?

小学生から大学まで、サッカー一筋ですね。

− サッカーを始めたきっかけは?

小学3年のとき、友達の父親がサッカークラブを作ることになったので、自然と入ったという感じです。

− 運動は得意なほうでした?

足は速かったし、背筋も300キロ、ボクシングをやってた親父の血を受け継いで、運動神経はあったほうでしたから。

− ポジションはどこだったんですか?

小学生のときは、スイーパーというバック前のポジション、中学のときにハーフをやって、高校、大学はフォワードをやりました。

− 練習もハードにしてました?

身体つきで、もう勝てない相手っているじゃないですか(石川さんは身長165センチ)。そういう相手には、「頭では絶対負けない」って思ってました。自分はディフェンダーの経験もあったので、「相手をどうやってライン際まで追い詰めるか」とかよく考えてました。球際の動きを鍛えるのに、始動を早くしたくて、カカトを地面につかないで歩いたり、自分を極限まで高めるのが好きでした。

− 自分との戦いみたいな

高校のとき、錦糸町の駅前で友達と、「あの人次なにやるのか」賭けたりしてました。電車で、「前に座ってる人がなに考えてるのか」想像したりするの好きですね

我が強かった高校時代、ブラジル留学と大学進学で悩む

− プロに行く道は考えていた?

クラブチームに誘われたりはしましたけど、結局は行きませんでしたね。中学で一緒にやってた友達が、埼玉の武南高校(サッカー強豪校)で、全国高校選手権に出てたので、自分も行くところ行けば結果を残せる自信はあったんですけど。

− 同年代のプロ選手というと?

鹿児島実業の城さんですね。一番スゴイと思ったのは、京都の山城高にいた石塚啓次選手。そのあとヴェルディに行ったと思う。彼のプレーは、もうなんか違う、追いつけないと思いました。

(山城高は、1992年選手権で準優勝。石塚選手は決勝戦で途中出場。その後ヴェルディに入団、期待された結果は残せず、2003年に引退している。 “技術はいいものを持っている。(中略)オレがあいつを認めてるから。このまま消えて欲しくないから言ってるんだよ” ラモスの黙示録、pp155-156、ラモス瑠偉、1999、ザ・マサダ)

− Jリーグは衝撃でしたか?

当時日本リーグの読売クラブと古河とか見に行っても、ガラガラなんですよ。。カズさんとかラモスさんとかいるのに。サッカーってマイナーだなっていう気持ちの方が強かったですね。だから、Jリーグが出来たときは、なんか違和感がありました。

− Jリーグに入るとか

高校卒業のときに、ブラジル留学を考えていたんです。でも、なんかあったら殺されるんじゃないかって親に脅されたの信じてましたから、ブラジルに行くのは今と違って怖いって思ったの憶えてます。だから、高校中退して行ったカズさんはスゴイ!と思います。この前NHKのマイロードでやってた中澤選手がブラジルで苦労した話をしてたんですけど、よくわかりますねぇ。敷かれてないレールに挑戦することは、格好いいと思います。

(マイロード:NHK教育で毎週土曜23時から放送。中澤選手の話は、2008年5月に放送された)

− あれは、面白かったですね。

ブラジル留学、クラブチームに入らないで、大学に進んだ時点で、サッカー選手になる夢は諦めた感じですね。

− それが、人生の第一弾転機だったと

そうですね。それと、僕は高2の夏、選手権大会の予選で、ジン帯を切って半年間動けなかったんですね。雨が降ってたかな。。城東高のグランドだったんですけど。その半年で、人生観が変わった気がします。運動選手で突出するには、怪我+メンタル+才能が必要で、どれが欠けてもダメじゃないですか。自分はジン帯を切ったことで、少し我が強かったのが収まりました。

− 我が強い高校生だったんですか?

高校までは、ホント我が強くて、道で肩が当たったらすぐ喧嘩になりそうになるとか。

− すごいね。

多分、高校の98%くらいの人には嫌われてたような気がします。自分のせいで迷惑かけてたりとかしてたから。修学旅行で、押入れで夜中起きてたら、先生が探索に来て違う人が見つかって、学年全員が怒られたりとか。

− その辺は、中澤選手が部員全員に嫌われてたキャプテンだったという話とかぶりますね。

なんというか、自分は一人でいるのが好きなんですね。大人数には馴染めないです。

大学のバイトが、現在の仕事につながる

− 大学は、どちらですか?

千葉大学の建築学科です。現役です。両国高校って進学校なんですよ。昼休み、友達とサッカーとかやるんですけど、僕のグループ以外、外で遊ぶ人はほとんどいないんですよね。

− 我も強いし、ちょっと浮いてた感じですか

多分、誰も僕たちのグループの人が、現役で大学に受かるとは思ってなかったんじゃないかな。結局、全員いい大学にいったんですけどね。

− 建築科を選んだのは?

15万人収容のサッカー場を作りたかったんですね

− なるほど。

センター試験で、国語の結果が悪くて、千葉大にしました。僕は国語が小学生のときから苦手で。「海底二万哩」の読書感想文書けと言われても、なにも浮かんでこないんですよ。。他は満点でも、国語だけ偏差値40ということがよくありました。本読むのは、好きじゃないんです。

− ほー

唯一、自分の好きな本が、松下幸之助さんの「素直な心になるために」ですね。大学1年のときに、年上の女性から薦められて読みまして、今でも読み返します。

“間もなくそのくもりはうすくなって、元のすきとおったガラスにもどる”、素直な心になるために、p75 松下幸之助 PHP研究所 1976 素直な心になるとこだわりが消える、わだかまりも消える。

− 大学でもサッカーは体育会ですか

そうですね。ただ大学1年の途中から、幕張のホテルフランクスでバイトを始めて、そっちが忙しくなったので、練習にはほとんど出れなくなりました。

− なるほど、今に直接つながるビジネスの経験が出てくるんですね

自分が今でも思いだすバイトは、小学校6年の冬休みやった、花卉市場のバイトですね。僕が140センチ、友達が160センチで、どうみても子供なんですけど、雇ってくれたオバサンがなにか事情があるんだと思ってくれたみたいで、働かしてくれたんですね。セリ落とされた花を花屋のトラックまで運ぶバイトで、夜の10時から朝まで。1週間やって、もらったバイト代、嬉しかったですね。

− フムフム

それからは、地元のお店でレジのバイトをずっとしてました。サッカーも、今なら奨学制度とかありますけれど、当時は、そんなものがあるのも知らなかったので、サッカーやるにしても学校行くにしても、費用は自分で稼がないといけないと思ってました。

− それで、大学は

建築学科は、不夜城と呼ばれてまして。自分は、延藤安弘先生のゼミにいました。コーポレイテッド・ハウスを日本に始めて広めた方です(延藤安弘氏ブログ)。当時は、ゼミを始めたばかりで、あまり学生も多くはなかったですね。先生に誘われて、大学院の入学も決まってました。

− ほー

大学3年のときに、パソナとソフトバンクの合弁で作ったIT専門派遣のバイトがあったんですね。スーツを着てやる営業のバイトです。そこで、バイトのモチベーションあげるために、訪問した会社の数ともらってくる名刺の数を競わせるコンテストがあったんですね。

− ほー

5人いたバイトで自分だけが大学3年、他の人は4年生だったんですよ。初日、とりあえず名刺50枚貰ってきて、1位だろうと思ったら、100社廻った人がいた。それが、サイバーエージェントの藤田社長です。自分は、本質的に名刺の数のほうが会社数より、大事だろうと思ったんですが、結局、名刺と会社数を複合的に判断されて、1位を取ったのは藤田さんでした。

− えー、もしかして石川さんて、「渋谷で働く社長の告白」に出てくる人??

(“ずば抜けて頑張る私に食い下がってくる石川を見て、根性があるなぁと感じていたのです”、渋谷で働く社長の告白、p.76、藤田晋、アメーバブックス2005、1999年の藤田社長日記はここ。石川さんも登場する)

そうです。そのときのバイトが終って1年くらいしたってから、藤田さんから今度会社始めるから手伝ってって、電話がきて、バイトでよければいいですよって答えました。1997年12月ですね。その頃は、自分は大学院行くのは決まってたんですね。それから連絡なくて、2ヶ月くらいしたら、パートナー変わったからって。それが1998年2月くらいです。

− それで

それで、4月からサイバーの仕事(バイト)が始まり、大学院行っても、お客さんから電話がかかってくるんで、サイバーの仕事ばかりしてるんですよ。それで、自分はいったい何をしてるのかと・・・

− 建築関係の仕事に進むつもりはなかった?

丁度その年の8月頃、家の経済事情が悪くなって、働かなきゃいけないなと思ってたんですね。先に建築系に就職した友人がみんな会社がつまらないって言っていて。。。それなら、って、インターネットの世界に飛び込むのは不安じゃなかったです。あと、サイバーのほうが給料よかったんですよ、家のこともあったんで。それで、結局1998年の10月に退学届を持っていって、サイバーに入社したんです

人材育成のために、ポジションは流動的に

− なるほど

自分は、常に新しいこと、ゼロを1にする人が格好いいと思います。サイバーにいたときは、新しい事業を始めて、誰かその分野の得意な人を抜擢して、ポジションを譲るということをずっとしてきました。上にいる人間が、どこかに移動しなければ、誰もそのポジションにつけませんよね。ポジションにつけなければ人材は育たないんです。

− ゼロを1にする人はいいね

でも、人には得意な分野があるので、それぞれのポジションにつけて成長するしかないですよね。そのためにも、ポジションは流動的でないとダメだと思います。

− ホー

自分は、大人数の集まりってダメなんですね。10人が限度というか。ベンチャー社長の集まりでも、全員知り合いかどうか聞いてから行くかどうか決めます。

− ベンチャーに最初に入って大きくなると、とりあえず全員知った顔だからよかったんですか

そうですね。藤田社長にはホント感謝してます。ウチの親も言ってます

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