ネット社会のさまざまな問題を考える −シンポジウム− (最初のページ)

I. 基調講演

「ネット社会の新しいパラダイム」
 東京大学教授 西垣 通

基調講演/西垣


  1. 動物におけるコミュニケーション
  2. 言葉の起源
  3. コミュニケーションの背後にある身体性
  4. サイバースペースにおける身体性
  5. 共同体における価値観:威信とお金
  6. 共同体成立の基礎
  7. オンライン・コミュニティ成立の可能性

1.動物におけるコミュニケーション
 動物ではコミュニケーションをしていない動物も結構いる。単独行動の動物は異性と交渉するような場合にはそれなりのコミュニケーションをするが、トラなどは大体ひとりで歩きまわっている。動物にとっての情報化というのは、子供を残していく、遺伝情報を残していくことに付随することが多く、同じ仲間でコミュニケーションをすることはあまりない。 これに対して、人間は人間同士でコミュニケーションをしている。まず、この点から考えていかなければならない。人間は本質的に群れで生きている。チンパンジー、ゴリラも群れで生きている。では、群れで生きている動物はどういう行動をするか。「政治をするサル」を書いたフランス・ドバールという動物学者は、サルは広く政治的な動物であると言っている。人間との違いは、サルは政治ばかりしているということ。この「政治」というのは、国会というような政治ではなく、誰と連帯するかとか、誰と互酬(お互いに報酬を与え合うこと)するかとか、そういうことを通して自分の地位をいかに高めていくかという意味である。サルが政治をすることを動物行動学的にいうと、自分の適合度を上げる、すなわち自分の遺伝子を残していくという行動原理に基づいてそうしているということである。 では、サルはなぜ群れて生活しているのか。それはサルが弱い動物だから。まとまって生活して、外敵に当たる。しかし、群れることで、その中ですごい競争が起こる。すなわち、自分の適合度を上げる、自分の遺伝子を残していくとなると、まわりはすべてライバルになる。そのなかで、どう生きていったらよいか。ここから政治というのが出てくる。サルのさまざまな行動のなかで、よく見られるのが毛繕い。毛繕いをしているとエンドロフィンが出て、気持ちが良くなるようだ。これによって政治的連合をする。もう一つは、メス同士が子育てネットワークを作ることだが、ネットワークが大きいためここから言語が生まれたと言われている。

2.言葉の起源
 人類学者のロビン・ダンバーが、毛繕い説を出している。群れのサイズと大脳新皮質のサイズの相関を計算すると、人間の場合、最適な群れのサイズは150になる。ところが、群れが150になると毛繕いには時間がかかるので、それをしている暇がなくなる。そこで、毛繕いの代わりに言葉が生まれたというのが、ダンバの毛繕い説。 毛繕いというのは、雑談とかスモール・トークというようなもので、高尚なものではない。言語の発生はそこにある。また、子育てのための連帯が言語発生の一番大きな動機だったというのが、ゴシップ説。毛繕いの代わりに言葉が生まれたとすると、コミュニケーションもそういうものではないか。つまり、コミュニケーションの背後には身体性がる。体と体で、目配せしたり、ちょっと触れたりするような。

3.コミュニケーションの背後にある身体性
 現在はメディアが発達しているので、必ずしも触ることはないが、たとえば、電子メールがきても、われわれはその背後にその人の声を聞いている。手紙もそうだ。そういうものが、ひとつの文化であり、そこに何らかの身体性が浮かびあがらないと、決して人の心を打たない。 ところが、近代はそういう部分を剥ぎ取ってきた。メディア史的にいうと、印刷文字によって始めたコミュニケーションが、近代を作ったというのが定説。物事を効率的に、メカニックに、合理的に行う。一見良いことばかりであるが、同時に身体的なコミュニケーションを奪ったのではないかというのが、マクルーハンの主張である。プロテスタンティズムが印刷メディアの宗教であり、プロテスタンティズムが身体的な部分をなくした。大聖堂で恍惚とするような共同性がなくなった。そういうことをカトリックのマクルーハンが批判した。マクルーハンは視覚性とか感覚の統合とかを言ったが、これはすべて身体に関わっている。 現代の権力は抽象性、論理性である。たとえば官僚が権力を動かすときには、論理を組み立てて動く。 そういう近代というものが、今、電子メディアによって少しずつ変わってきている。つまり、電子メディアというのは、イメージであり、マルチメディアというのは、デジタル技術による音声、映像などの統一的な扱いのことである。「ジュラシックパーク」のように、この世にない、怪しい映像を作れるコンピュータがあって、デジタル技術がある。大聖堂や日本の寺院で、お経などを唱えるのは、恍惚というか、怪しいというか、また、荘厳であるともいえる。電子メディアは、そういう方向を目指していると思う。すなわち、電子メディアは、一種の身体性を復権、復元する。再び、身体性というものを引き寄せようとしている。その意味では、ポストモダンはプリモダンと重なってくる。 最近の学生は本を読まなくなったといわれる。それは確かだが、では何をしているかというと、もっとビジュアルなものを求めている。本は売れなくても、漫画は売れるし、映画とか音楽はもっと売れる。やはり、人間は本来、身体性、全感覚性というものに強く惹かれるのだと思う。そういう意味で、マクルーハンはマルチメディア時代を予見した予者ではなかったのかという気がする。

4.サイバースペースにおける身体性
 ただ、考えなければいけないのは、この(身体性の)開放は本当の意味での開放なのか、ということである。そこにでてくる身体というのは、本物の身体というより擬似的な身体ではないか。デジタルではサンプリングを行うので、元の情報のある部分は完全に失われる。これがデジタルの特色。ただ、これは電子メディアの時代に始まったことではない。遺伝情報というのはデジタル情報で、体がアナログ。それをDNAの遺伝情報にしたときに、たとえば獲得形質のように落ちる部分がある。 したがって、サイバー・スペースにおける身体性というものは、元のものとは違う。さらに、そこには、資本というものが入ってくる。選択肢は広がるが、実際に見れるのはハリウッドの作った映像がほとんどである、という現象は必ずある。これによって、一種の批判精神が衰えていることはある。 近代的な文字によるメディアのメリットというのは、やはり批判精神である。近代性を抑える代わりに、距離をおくので、ロジカルな批判が可能になる。これに対して、バーチャル・リアリティなどには対話性と没入感がある。 ここで非常に気になることは、サイバー・スペースに市場経済がどう関わってくるかということである。サイバーな身体は本当に自由なのか。しょせん資本に絡めとられた自由というか、お釈迦さまの手のひらで踊っている自由というか、そのようなものではないのかという気がしている。

5.共同体における価値観:威信とお金
 近代で一番強い共同体は国家である。徴兵制とか議会を有する近代的な意味での国家というのは、ここ数百年の間に出てきたものだ。近代というのは、この国家の秩序と一体となっている。ここでの知のありようは、合理的な知であり、あるいは国家のために役立つ実践的な知である。新聞などは国家を批判するので、国家のために役立つとはいえないという人もいるが、国家の知がオーソリティで、新聞はそれに対するアンチとして存在するので、基本的には知のパワーが国家に集中しているといってよい。 しかし、ここが今変わってきている。東大法学部の学生は大蔵省に行きたがらない。弁護士になりたがる。私が学生だった頃には、裁判をやりたいとか、公害について戦いたいという人がいた。今は違って、金儲けしたいので弁護士になりたいという。要するに、金のための知。知識が金になるということで、すべてが動いている。大学でも、国家の公共性を守るための大学という理念がだんだんなくなってきて、今はベンチャー礼賛になっている。それについて、良い悪いを言っているのではなく、こういう状況になっているということであるが、これはかなり異常な状況であると言っておきたい。 というのは、国家に限らず昔のさまざまな共同体では、お金はあまり必要ではなく、威信とか名誉が大切であった。たとえば、会社で立派な製品を作って、会社が100億儲けたとしても、その製品を作った人のボーナスは100万か200万程度だったが、それで良いというモラルが戦後ずっとあった。なぜなら、皆から認められるし、尊敬され、自分も生きがいを感ずるから。おれは金のためにやっているのではなく、会社もあるが、社会や人類のためにやっているというようなことを言っていた。これは決して不自然なことではない。 何故かといえば、市場経済のいうのは、経済人類学者のカール・ポランニーによれば、非常に特殊な形態である。昔は、自給自足でやっていた。自給自足の共同体での経済行為は、いわゆる互酬がベース。お米をもらったから、こんどはお酒をもっていく、という関係が一般的。(この互酬というのは動物の中では普遍的に見られる行為である。)そして、王様が出てくると、再配分が出てくる。だから、互酬が基本で、次に再配分。さらに、進むといわゆる沈黙交易が出てくる。神社のところにお米を置いておく。このときは、言葉が通じないので、顔は合わせない。そこへ毛皮を置いて米を持って帰る人が出てくる。そこでは一種の交換が行われている。これが市場経済の起こりである。そうなると、見知らぬ者同士で交換が起きる。ここで始めて普遍的な財としてのお金が登場する。 ところが、こういうものが人間の経済行為の中でどんどん膨れ上がってくると、ある意味では非常に不思議なことになる。共同体の中ではちゃんとした価値観がそれなりに存在する。たとえば、会社の中では、立派な仕事をした人、腕のあるエンジニアが尊敬される。そうすると、彼らの作った製品というのは、売れなくてもすばらしいとなる。すなわち、共同体の中では、お金にかかわりなく、威信というものがある。そういうものの中での貸し借り関係があって、共同体の価値観がある。この共同体の価値観が今崩れている。つまり、もうみんなひとりひとりになっている。就職してしばらくは会社にいるが、技術を身につけて独立したいという人がすごく増えている。では、その人の目的は何かといえば、一生食っていけるだけの金がいるということ。これはある意味でニヒリズムだと思う。この辺は、いろいろ議論のあるところだと思う。 たとえば、何かの開発をしたとすると、売れるか売れないに関わらず、共同体の中では、その価値はあると信じられていた。ところが、最近はそうではない。売れなければだめだと後でわかる。つまり、価値があらかじめ共同体の中で決められるわけではなくて、値段が高くつけば、それは価値のあるものだということになっている。これは恐るべきニヒリズムを生むことになる。結局、自分がやってきたことは何だったかということになる。だから、それなりに進歩したいということで今の若者は料理人になりたいとかになる。そうでなかったら、みんな賭博師みたいになってしまう。運が良いとか、そういうことで金持ちになったりする。そうなったときに、共同体の中で培われてきた価値観が完全に否定されることになる。そういう中で、電子メディア時代というものを考えていかなければいけないので、これはかなり由々しいことであるという気がする。

6.共同体成立の基礎
 共同体というような価値観は、基本的には定住民の価値観ではないかと思う。ユダヤが金融に強いというのは、土地を追われ、その中で生きていくために金融や知的なパワーを磨いていったからではないか。他の人々は土地に定住して、仲良くやっていればよく、日本人はその最たるものだ。 共同体の崩壊というのは、アメリカニズムと深い関係がある。パソコン・ネットが、市民を連帯させて新たな共同体を作る、という考え方がある。私もそうなれば良いと思うが、そう簡単にはできない。 パソコン・ネットはいうまでもなく、60年代のヒッピーイズムに根をもっている。ベトナム反戦あるいは市民の連帯のツールとしてコンピュータを考えていこうというところに発している。しかし、このような動きはどんどん減っていて、ヒッピーはヤッピーになり、さらにベンチャーになっている。今はベンチャーを興して、株式を上場して、巨万の富を得たいと考えている人がいっぱいいる。そういう人は一体何なのか。 アメリカには、プロテスタンティズム的な、刻苦して、清貧に耐えて、神に祈りながら働くという伝統がある。これは、基本的には、定住民の思想であると思う。もう一つのアメリカの側面に、フロンティア・スピリットというのがある。今はすべて良い脈絡で言われているが、必ずしもそうではなく、常に新しいものを侵犯していく、それを力によって支配していくというロジックである。けれども、フェアにやろうというものである。その中で、自由、快楽、欲望というものをあくまで追求していくというところがある。

7.オンライン・コミュニティ成立の可能性
 昔は国家対市民という構図があった。この場合には、国家が悪く、市民は良いとするものである。だから、市民である自分のすることはすべて良い、という図式があった。しかし、官庁にハッカーが侵入したときに、被害を受けるのは市民であるということもあり、物事は複雑な関係になっている。ヒッピーがコンピュータを批判した当時には、大組織だけがコンピュータを抱え込んでいた。それはおかしいので、個人がパワーを持ちたいということで、今では昔の大型コンピュータをはるかに凌ぐパソコンを持つようになっている。ということは、政府対市民ではなくて、市民同士がやりあうことがあることも考えていかなければならない、ということである。 皆がオンラインで情報交換することにはすごく意味があるし、良いことはたくさんある。つまり、従来の共同体はうっとうしいもので、逃げられず、また、人間関係もやっかいだ。国家は死ねと命令することもある。会社もきつい。共同体の良いところは救ってくれることだと思う。怪我したり病気になっても、そう簡単には放り出さない。人間は弱いので、それはとても良いことだ。その反面、忠誠を尽くさなければいけないし、簡単に離脱できない。 だから、簡単に入れるいわゆるオンライン・コミュニティというのは、電脳広場というべきものだ。これには、良いところはたくさんあるが、共同体とは違う。昔は、無理に共同体に押し込められていたが、今は外れている。その代わりに、個人がバラバラになっている。 人間は共同体の桎梏が強いと、自由になりたい、はばたきたいと考える。それはよく分かるが、自分自身の問題として、皆一人で生きているわけではないことを、よく考えなければいけない。一部、要領が悪く、まじめな若い人が、過激な宗教団体に走ったりする。 今の若い人たちが何で苦しんでいるかといえば、過激な競争社会だからだ。食べるものはたくさんある。でも、威信、名誉、つまり、友達とやって尊敬されればよい。何かできればよい。足が速いとか、顔がよいとか、勉強ができるとか。けれども、ほとんどの人は特に際立ったものを持っていない。持っていなくても、それなりにその人はいいんだと認めてくれる価値観がなければうまくいかない。しかし、今のサイバー・スペースは、そういうものを与えない過度の競争社会になっていて、さらにそれを煽っている。とにかくベンチャーで一度に10億、20億というように。10億儲かるのなら、大学辞めようかなと思ってしまう。そういう中で、実際には儲からなくて、ダメージを受ける人がたくさん出てくる。 こういう中で、電脳広場がオンライン・コミュニティになっていく可能性がある。たとえば、NGOとかNPOというものもある。基本的に3つのパワーがあると思う。その一つである国家は、明らかに衰退していて、今後も衰退していくが、軍隊と立法権を持っている。多国籍企業もますます強くなっていくが、それだけではダメだ。そういう意味で、市民というものを絶対視するわけではないし、また、市民の中に悪もあるが、NGOとかNPOといった形のもので相互チェックしていくようなシステムを、なんとか作っていくことが大切ではないかと思う。