ネット社会のさまざまな問題を考える −特別講演会− (最初のページ)
Surveillance in an Information Society: Monitoring Everyday Life

講演会<詳細版>

1. 監視(Surveillance)とは何か

講演会の様子  「監視(Surveillance)」とは、盗聴とか盗聴がらみのスキャンダルなどを意味しているわけではなく、また、政府機関などが特定の個人を監視するという意味でもありません。私がいう監視とは、各個人の詳細なデータに焦点を当て、その個人に影響を与えたり、管理したりする事を意味しています。

「監視」とは両義性を持っている言葉であり、否定的な意味合いだけではなく、個人が社会的生活を営む上で、メリットを享受できるという肯定的な面もあります。一人の人間に関する情報が集積され、処理されることにより、社会生活をより効率的に、より便利にすることができるのです。自著『新・情報化社会論』にも書いたように、私自身、新技術の熱心な信望者ではありませんが、監視には肯定的な側面もあるということは強調しておきます。監視の問題には、公民権や技術開発、情報政策、規制という問題から、場合によっては、社会的レジスタンスなど、さまざまな問題が絡んでくるのです。

電子的手段による監視は、いわゆる知識ベースの社会における管理方法として、その重要性が増しつつありますが、そうしたなかで、どのような社会的関係が監視によって影響を受けるのかが、現状ではまったく理解されていないと思います。そこで本日は、現代の社会生活を営む上で監視の果たす役割について述べたいと思います。

また、監視はプライバシーとは異なる概念です。プライバシーは重要なコンセプトではありますが、プライバシーというコンセプトではこの講演の核心を表現することはできないので、ここでは監視という概念で話を進めます。

2.いま何が起きているか

 まずは、いま何が起きているかを考えてみます。現在は「生身の身体が消える」時代になっています。20世紀は大きな変革の時代で、情報技術の発達により、さまざまな事柄を遠隔から行えるようになりました。20世紀初頭のカナダでは、ほとんどの社会的関係は、人と人が直接会うことによって形作られていました。そして21世紀を目前とした現在、人と人の関係構築が、電子的またはその他の媒体を経由して行われるようになっています。もちろん、今でも人と人が直接会って構築する絆作りも、家族や友人間を始めとして残ってはいます。しかし、社会における双方向性の関係は、電子的な中間媒体を介した形が主となっています。

 私は日本に来る前、あちらこちらの国に行きましたが、どの国でも、お金が必要な場合や銀行手続きが必要な場合、その国の銀行で口座を開設する必要はなく、従来から取引していたカナダの銀行をオンラインで利用できました。このことは、今となっては当たり前のことですが、ほんの20年前、いや、15年、10年前にですら、世界中を移動しながら、カナダの小さな町にある自分の取引銀行との取引ができるというのは考えられないことでした。カナダにいるときでも、預金の引出しはATMで行うので、自分の取引銀行の担当者と話をする必要はありませんでした。これが「生身の身体が消える」時代だと申し上げた理由です。

 では、カナダから見て地球の反対側の国から、カナダにある自分の取引銀行の口座から預金を引出すときに、カナダの銀行は預金を引出しているのが私であることをどのようにして確認したのでしょうか。ビデオ画像を確認して顔を確認したのでしょうか。それとも、電話で声を聞き、「これは間違いなくライオンさんの声だ」と確認したのでしょうか。そういったことは不要です。カードと暗証という抽象化されたものによって確認したのです。取引においては、顔や身体が消え、その代わりにカードと暗証という抽象化されたものによって確認が行われているのが現実です。

 このように、生身の身体の代わりに抽象化されたコードによって個人の確認が行われるということが、監視には公的な面があると言ったことの理由です。私の声や顔を確認する代わりに、カードや暗証が「信頼の証」(token of trust)となっています。本人であることを証明する信頼の証として、カードと暗証という抽象的なものを提出すれば、消えてしまった私個人の顔や声が補完され、個人が特定されることになっています。

実社会においては、握手をするとか目を見つめ合う、お辞儀をするなど、いろいろな方法で信頼を表すことができます。しかしながら、顔や身体が消えた世界では、信頼の証となるものが別途必要になります。この信頼の証は、また個人生活を追跡する手段でもあります。つまり、組織からの信頼を保つ手段は、同時に、その組織が私を追跡する手段ともなっているのです。たとえば、カナダの銀行の場合でいえば、カードによる預金の引出しを追跡することにより、私たちがどこにいるかなども追跡しており、それに基づいて信頼が与えられているということです。

 私個人のメディカル情報も追跡されているはずです。ここにあるのは、カナダ政府が発行している健康カードで、ここには、カナダの健康保険関係の情報だけでなく、私の健康状態という非常にセンシティブな個人情報も保存されています。大学のIDカードも同じです。このカードがあれば、コピー機や図書館が使えるだけでなく、このバーコードによって、大学ビルの特定のセクションに時間外に入ることができます。しかしながら、逆に、あるドアを開けたりコンピューターを使うためにこのカードを使うと、その瞬間に、大学のセキュリティシステムには、このカードの所有者がどこにいるかが記録されます。ここでも、信頼の証が追跡手段にもなっているのです。

 このように、監視とは否定的な側面だけではありません。監視という言葉の意味は、二面性を持っています。現在のような技術的進歩の速い世界において、こういう意味合いの監視が急速に増加しています。このため、21世紀における社会的関係や政治的課題を正しく理解するためには、この問題を正しく把握する必要があると思います。

 消えつつあるのは、身体だけではありません。枠組みもまた消えつつあります。ここで、見えざる枠組みの例として、情報インフラストラクチャーを取上げます。身体と同じように枠組みも、視覚でとらえられないものとなりつつあります。これらは誰の目にも明らかなわけではありませんが、非常に重要な意味を持っています。ポイントは二つあります。

講演会の様子  第一に、リスク管理の問題があります。リスク管理は技術的な進歩の速いこの世界において、重要性が高まっています。特に、保険会社にとって重要性が高まっています。最近の四半世紀を見てみますと、公営企業の民営化が進展し、その結果、個人や民間企業に危険負担が移管されています。近年、事故の可能性が高いハイリスク地域で、その危険負担を保険会社に移管すべきとされる地域が増えています。政府の施策が保険会社の基準に従って実施されることもよくあります。警察活動も、保険会社の基準を参考とする可能性があります。そして保険会社では、カテゴリー設定による分類が進展しています。たとえば、健康による医療リスクという面の分類が行われています。また、居住地域という面でも、盗難の可能性が高く、保険リスクが高いと考えられる特定の地域に住むと、保険料が高くなったりします。つまり、このカテゴリーというものが、私たちがたまたま住んでいる地域の分類方法に多大な影響を与えます。カテゴリーによっては、高い保険料を支払う必要が出てきます。北米の実例としては、ホモセクシュアルの人たちは感染症にかかるリスクが高いと保険会社が認定し、その結果、保険料が高くなるということも発生しています。このようなカテゴリー化や社会分類を可能にしたのは情報インフラストラクチャーですが、この大かがりなカテゴリー化が、人々の目にふれないところで行われているのです。

 第二のポイントは、情報インフラストラクチャーが、他の技術を接続できるプラットフォームとなっているということです。ここでは、コミュニケーションや情報通信技術に対する社会学的観点が非常に重要であると思います。何故なら、情報インフラストラクチャーは、今日の主題である監視を含む、他の技術を接続する土台となるからです。

 情報インフラストラクチャーにどのような技術を接続できるのか、また、その結果、どのように監視が可能になるのかについて、例としてDNAについて述べます。ちょうど今、ヒトゲノムが新聞などを賑わせています。どのような遺伝情報が伝えられているのか、また、どのような疾病にかかりやすいかなどが分かるなど、DNA情報が有益であるのは確かでしょう。しかし、この問題には、異なる側面もあります。今年の3月だったと思いますが、保険会社が遺伝データを基に採用時のリスク管理をすることを、英国政府が許可して大きな話題となりました。

 監視の別の側面として、情報インフラストラクチャーという目に見えない枠組みが、個人の現在のプロフィールを記録するだけでなく、まだ起こっていない、将来のことに関する予想においても利用できるようになってきたことがあります。たとえばリスク管理や社会分類は、遺伝子学的観点から見て、ある病気になる可能性が高いかどうかということを基準に行われています。手のひらや網膜のスキャニング、声紋などを取り扱うバイオメトリックも、監視を支える情報インフラストラクチャーに接続できる情報技術です。

 実例を挙げると、労働者がパレスチナからイスラエルに移動するときには、手をスキャニングされます。これによって、イスラエルに入国する資格を持っているかどうかの確認が行われます。また、確実にパレスチナに戻ったかどうかの確認も行われています。カナダとアメリカ、モンタナ州の国境には音声認識装置があり、車の中からその装置に向かってしゃべるだけで国境が越えられます。音声認識により、頻繁に国境を越える人たちの出入国が管理されているからこそ、これが可能になっているのです。他にも数多くの例がある。マスターカードでは、網膜スキャニングによる預金引き出しを可能にする技術の開発を進めています。ここで重要なことは、これらの技術は、情報インフラストラクチャーに接続されることによってさまざまな監視を可能にする技術であるということです。

 監視は自動化することが可能で、ビデオやクローズドサーキットTVと違って、誰かが常に見ている必要はありません。また、監視は、将来の予測という形でも利用されるようになっています。ロンドンの地下鉄では、プロマティカというシステムが試験運用されています。これはロンドンの地下鉄で発生する可能性のある、さまざまな問題の兆候を発見するためのシステムです。ビデオカメラを使ったインテリジェンスシステムにより、ある種の状況が発生しているかどうかを監視しています。このシステムを使うと、たとえば、交通渋滞の状況把握や対処などが可能になります。プロマティカは、発生している渋滞を把握するだけでなく、渋滞を予測することもできます。また、暴動やスリ、自殺の防止などにも利用できます。自殺しようとしている人は、ホームの端に立っていて電車が来ても乗らずに見送るなど、特徴的な行動特性をいくつか持っているので、そのような特徴的な行動特性をインテリジェンスシステムによって特定し、将来を予測することができるようになります。

 ここで重要なのは、情報インフラストラクチャーがあるからこそ、監視が可能になるということです。監視とは、情報化社会の特殊な一部分ではなく、情報化社会が情報化社会であるために必要不可欠な要素となっているのです。

 個人データの漏洩の問題について、わかりやすい例を挙げてみます。20世紀のカナダにおいては、個人データは、いわば水も漏らさぬ容器にしっかりと保存されていました。この時期には、私の個人情報は、カードとキャビネットという従来型の方法で保存されていました。税務関係の情報は、税務署の特定のキャビネットに保管されていたし、その場所から移動することはありませんでした。私の生年月日や結婚日などは、戸籍抄本として保管されていたし、メディカル情報は、かかりつけの医師のキャビネットに保存されていました。このような方法では、私の個人情報を他の場所に移動させることや、その情報を外から見ることは困難でした。たとえば、警察の令状がなければ、私の個人データを見ることも困難でした。この時代のデータ保管場所は、「水も漏らさぬ容器」だったのです。

 しかしながら、今日では、情報インフラストラクチャーの発達により、かつてないほど簡単に情報を移動・共有できるようになりました。この結果、政府機関の間でも情報の共有が進んでいます。ただ、ある政府機関がどの程度の質と量のデータを共有しているかを知ることは困難です。オンタリオ州においても、レコードリンケージと呼ばれる方法でデータの共有が図られています。なおこれは、アメリカでは、データマッチングと呼ばれています。このようなことが継続的に行われているということは明らかであるが、どの機関の間でどの程度行なわれているかという疑問には明確な答えは得られません。

 もちろん、これが判明する場合もあります。昨年、明らかとなった事例ですが、カナダ人がアメリカに行って買い物をする場合があります。この場合は、国境においてアメリカ政府によるチェックが行われていること、また、カナダ労働省と税関の間で情報が共有されているということが明らかとなりました。これは、近年、急増している監視活動の例です。つまり、不正防止のために政府が行う監視です。この例では、政府は、失業給付の不正受給を防止しようとしているのです。つまり、失業給付を受けているのに、アメリカで多額の買い物ができるとしたら、失業給付以外の収入があるはず、つまり、失業給付を不正に受けている可能性が高いというものです。

 この例から、このような監視の特徴がもうひとつ見て取れます。つまり、本来「推定無罪」でなければならないのに、その前提が崩されている可能性があります。今回の例でいえば、失業給付を受けている人がたまたまアメリカに行って必要かつ合法的な買い物をしただけで、「あやしい」と嫌疑を受けることになるのです。

 政府機関でさえもこれほど大規模な情報共有が行われているということから判断すると、商業的に実施されている情報共有の規模が莫大であることは想像に難くありません。なお、90年代の半ばにケベック州で行われた調査では、個人情報の共有は、政府機関におけるよりも民間において、はるかに広範に行われているという結果が出ています。個人情報のソースとしては、保証書へのデータ記入やメンバーカードの申請など、情報を提供したことが意識される場合もあります。ネットサーフィンが個人情報ソースとなることもあります。たとえば、ダブルクリック社は、クッキーやインタラクティブクッキーによって個人情報を大規模に収集しようとしています。クッキーによって収集されるデータはIDのないデータですが、ここで昨年11月に、ダブルクリック社は、アバカス社を買収しようとしたことに留意する必要があります。アバカス社とは、アメリカの会社で、名前と電話番号といった個人情報を北米800万世帯以上について持っているはずです。つまり、ダブルクリック社は、インターネットで収集した識別不可能なデータとアバカス社の識別可能なデータを比較しようと考えたわけです。キーボードの前に座ってネットサーフィンをしなくても、航空券を買うだけで個人情報が集積されます。航空券を購入すると同時に、個人情報が記録されるからです。フリークェントフライヤープログラムに参加すると、セキュリティ用の個人情報が商業的に利用されるようになります。人種や宗教的な背景がある程度わかることもあるし、食べ物の嗜好や、飛行機に乗るために医療データを提出した場合は、そのデータなどが価値を持った個人情報として世界中で蓄積されます。

3.いま起きていることの影響

 監視とは、特定の目的を持って特定の個人を監視するということではなく、システマチックでルーチンなものであり、常に行われているものです。また、カテゴリー化によって、新しい社会秩序が生まれつつあるともいえます。このカテゴリー化は流動的であり、時、場合、目的に応じてさまざまな形で人々を分類するもので、現在進行中のプロセスです。逆に言えば、監視が常に同じ効果や影響を生むというわけではありません。監視に関わるカテゴリーは、監視の重点をどこに置くかによって連続的に変化するもので、明確な境目はありません。ひとつの極としては、失業給付の例にあったような疑惑というカテゴリーがあります。また、その対極には、魅了(seduction)というカテゴリーがあって、ウェブ上で何かを購入してもらおうという場合の監視もあります。どちらの監視も、個人の生活に影響を与えたり管理したりすることを目標に詳細な個人データに焦点を当てるという、冒頭の監視の定義に合致していることが理解できると思います。

 広い意味でとらえた場合のプライバシーについて述べます。北米やヨーロッパで話をするときには、プライバシーという言葉を使わざるをえません。欧米人は、プライバシーという切り口のほうが理解しやすいからです。一方、日本では、プライバシーという単語を正しく表す訳語はないと聞いています。また、私生活のどこまでをプライバシーと考えるかも、欧米と日本では大きく異なっています。

 しかし、欧米と日本で共通基盤となりうる原理が存在すると思います。一つは、人間の尊厳です。どの文化においても、人が自分の情報を他人に開示するときには、信頼をベースとして、自らがボランタリーに情報を開示するもので、このようなアプローチを倫理的原則と呼んでいますが、これは、情報システム内における個人情報の開示という問題を考える際の共通のベースとなりうるのではないかと思っています。これをベースに検討するならば、プライバシーという単語を使わずに話を進めることが可能です。また、このように各個人が自らの開示情報を制御することを基本とした人間の尊厳というものが、いわゆる公平な情報原則の前提なのです。そして、この公平な情報原則をベースに情報政策やデータ保護などを策定する国が世界中で増加しています。

会場の写真  このように私は、欧米の個人主義的観点から情報社会や監視社会について語っているわけではありません。世界に共通する視点からこの問題を検討する必要があります。

 社会分類は非常に強力で、一個人の生活に強い影響を与えます。その人の人生における機会を制限したり、結果に影響を与えたりすることが可能です。この方法は、日常生活における社会秩序を確立する、非常に強力な方法なのであり、そのような社会分類は、おそらく既存の社会階層を強化するであろうし、また、新しい社会階層を産む可能性もあるでしょう。たとえば、居住地をベースとした保険料率の算定から遺伝的に疾病にかかる可能性が高いか低いかをベースとした採用可否の決定、行動基準をベースとした自殺可能性の算定など、監視によるカテゴリー化の例はいくらでも挙げられますし、しかも、このカテゴリーは非常に強い社会的力を持っています。

 では、カテゴリー分けはどこで生まれるのでしょうか。また、それは、一般に支持されるものなのでしょうか。リスク管理分野におけるカテゴリー化は、確率をベースとした保険統計原理に基づいています。しかしカテゴリー化は、個人の人生にまで影響を与えうるので、モラルや倫理をベースとして考える必要があります。リスク管理という概念的カテゴリーでは、現在の言動だけでなく、将来の言動までを見ています。したがって、情報インフラストラクチャーや監視状況に対して、私は倫理的なアプローチを組み込むべきだと考えています。この倫理的アプローチは、現在、この分野の主流となっている概念的で非倫理的なアプローチに対するバランスをとるために必要です。

 ここまで、生身の身体が消えるとか見えざる枠組みなどについて述べたので、次に、見える枠組みについて述べます。

 ロバート・モーゼスという、ニューヨークの高速道路の設計を手がけた建築家が、人がある地点から別の地点に移動することのできる、物理的なインフラストラクチャーを構築したことがありました。ところで、この技術設計は完全に中立的であったでしょうか。否です。既に述べたように、中立な技術的活動など存在しません。ロバート・モーゼスが設計した高速道路は、陸橋の下をくぐるところでその高さが低くなっているところが何ヶ所かあります。それは偶然のように見えるし、これを見た人はおそらく、「ちょっと低い気もするけど、高速道路としての機能はちゃんと果たすんだろう」と思うことでしょう。しかし実は、ロバート・モーゼスという建築家は、ニューヨークのどこに誰が住むべきかと考えていたのです。たとえば、ジョーンズ・ビーチには、裕福な白人が住むべきだと考えていました。そのために、高速道路から陸橋までの高さを低くしたのである。貧しい人たちや黒人たちはバスを使うわけですが、バスはそのように低くなっているところを通過できないのです。

 監視システムを支える、見えざるインフラストラクチャーは、特定の人たちを排除したり受け入れたり、特定の人が特定の事柄を行う資格があるかないかを判定したり、また、特定の人の人生における機会を制限するものなのでしょうか。この疑問に対する答えは、正にこれこそが監視システムの本来の目的であるということです。監視システムとは、誰が何を行う資格があるのか、誰がどこにいることができるのかを、分類し決定するものなのです。

 ここで問題なのは、このカテゴリー化がどのようにしてなされるのかです。このカテゴリー化は、保険統計原理というリスク管理概念からのみ導かれるのでしょうか。それとも、データベースマーケティングや警察、地方政府の官僚などの偏見から生まれるのでしょうか。もしこのカテゴリー化がランダムに行われている限り、特に大きな問題はないと考えられます。ただし、このカテゴリー化がいったん自動システムに組み込まれると、そのようなランダムな活動による社会秩序が固定されてしまうことになります。これが、監視の方がプライバシーよりもはるかに重要だと私が考える理由です。そしてこれがまた、現在、技術設計や情報政策、公民権という分野において、21世紀に向けて最大の課題に直面していると考える理由でもあります。もし積極的な関与していかなければ、どのような結末になってしまうかは明らかでしょう。

4.いくつかの留意点

講演会の様子  サーベイランスの語源はフランス語のサバイエという単語です。これは「ケアをする」という意味と「管理する」という意味を持っています。たとえば、小さな子どもをサバイエしていて欲しいと言われた場合、子どもが危険な目に遭わないようにすると共に、子どもが道をはずしそうになったら防止して欲しいという意味もあります。しかしコンピューター社会における監視では、管理の自動化に重点が置かれており、ケアするという側面がなおざりにされていると思います。

 監視の問題については、文化による違いはあるはずですが、しかしながら、個人の詳細データの処理方法は非常によく似ており、その影響もほぼ同じです。日本では企業における意志決定が倫理的に行われることが多いことはよく理解していますが、それでも今後は、倫理的に判断すべき事柄が保険統計原理によって判断されることが増えていく危険があると感じます。この危険の程度は国によって異なるとは思いますが、あらゆる文化、あらゆる国が危機に直面していることについては同じだと思います。

 プライバシーについては、各国に法律があり、そのような法的取り組みは必要ですが、それだけでは不十分です。このような法制度の整備にも、監視に対する意識を促進するという意味合いはあります。しかしながら、法律には多くの欠点があります。日本のデータ保護法にも、多くの欠点があり、とても満足できるものではありません。日本のデータ保護法は、自己防衛しか念頭に置いておらず、監視に対する意識を促進するのではなく、自分の情報が悪用された際に是正を申し入れられるようにしているだけであり、積極的な保護は行われていません。これが、技術に関する意志決定では、さまざまなレベルで「技術的公民権」を考えるべきだと私が主張している理由です。たとえば、教育という分野においては、子どもたちにキーボードの使い方を教えるだけでなく、もう一歩踏み込んで、倫理的な問題に対する意識を高めるようにするべきだと思います。ビジネス慣行の面でも、どのようにすれば監視に対する意識を組み込むことができるかを検討する必要があります。また、技術自体にも組み込む必要があります。プライバシーや暗号化など、技術面からも適切な制限を設ける必要があります。

 ここでひとつ、監視に対する意識向上を組織団体としてウェブで働きかけているところをご紹介したいと思います。Computer Professionals for Social Responsibilityという団体で、非常にユニークな活動を行っています。たしか1999年2月だったと思いますが、インテルが新しいペンティアムIIIにID機能を搭載しようとしたとき、大かがりな反対運動を展開したのもこの団体です。彼らはインテルに損害を与えたかったわけではなく、「パーソナルコンピュータに、企業や政府が利用可能な識別子を搭載すべきかどうか」という倫理的な問題を提起したのです。マーケティング的な観点からインテルが計画した識別子搭載に対して、倫理的観点から反対したのです。

 最後に、ジョージ・オーウェルの『1984年』について述べます。この本で彼は、オセアナを牛耳っていた専制君主を描きました。ここでは、権力によって監視が行われていました。ジョージ・オーウェルがこの本を書いたのは1948年で、現在のようなネットワーク社会を想像することは不可能であったはずですが、先見的な考えを持っていた作家であったと思います。この本は、人間の尊厳を中心にした本であり、プライバシーなどの個人主義的概念を中心にした本ではありません。また、『1984年』で使われている言葉の意味が執筆当時の意味から変化してしまい、意図が正しく理解されなくなってしまったという問題もあります。モラルという観点から語られたように見える事柄も、システムの一部の問題であり、オーウェルはこれによって、政権に対する世論というものを示唆しています。ジョージ・オーウェルは電子化される以前の世界を描いたのですが、その当時においても、技術開発に関して、人間の尊厳や倫理的アプローチ、民衆の参画が重要であると主張したのです。