ネット市場における信頼−シンポジウム− 2001/2/8 (最初のページ)

パネリストの意見発表

(1)武蔵武彦氏「わが国のネット社会と信頼形成」

日本経済の行く末をかなり本気で心配しています。IT産業が経済全体を引っ張る、日本もIT革命でこの長い不況から脱出するだろうという議論があります。これに対して、恩師の篠原三代平先生は、いやそうではない、アメリカのGDPの設備投資割合は普通の中期循環の少し変わったものにしか過ぎないと言っています。また、アメリカ経済は世界各国から集まった流動性の高い資金の流れのおかげで好調であるが、中期循環論からいけばバブル崩壊で大変な事態が予測されるという議論を展開されています。

この私の心配は、今日のテーマである信頼と結びついています。失業率が5%で良かったという時代がこないとも限らないと危惧しています。まだ、そんなことはないだろうと思っている段階で、最悪の事態を想定しながら、平時において最善の策を練るのが専門家の責務であると思います。

この事態に対して、ネット市場における信頼形成が非常に役に立ちます。信頼があるから経済活動はスムーズにいっているし、これからもそうだと思います。

その理由を経済学的に考えると、取引費用(トランザクション・コスト)が問題になります。たとえば、7万円のパソコンを買うとすると、そのパソコンを買うのに、どのぐらいの時間が必要なのだろうか、お金を払ったがパソコンは届くのだろうか、初期設定がうまくいくのだろうか、うまくいかなかったらどうしたら良いのだろうか、というような時間的・精神的なコストが問題になります。物を安く買えるのはよいが、その見返りにいろいろな形でコストがかかります。

いままでは、信頼があって、品物が届かないとか、故障している場合などには、対応してもらえて、それほど混乱は起きなかった。しかし、これからは、そうとばかり言ってはいられないような時代になってくるのではないか。

一般的に、誰かが何かをやってくれるだろうというような、制度に対する信頼、政府に対する信頼、政治や社会に対する信頼がありますが、阪神淡路大震災のような事態になると誰もやってくれない、ということが明かになったりします。本当に大きなことが起こったときに、保険とか、法律とかでは、事前の基準でカバーしていない部分があることが明かになったりするので、心配しているのです。

阪神淡路大震災のときには、ボランティアがインターネットを駆使して、救援活動を行いましたが、その体験を考えても、ネット市場においても信頼形成が大切であると言えます。ドットコム企業の中でも、顧客第1主義というような顧客の信頼を得るために、初期のコストをかけてサービスを提供しているところだけが生き残っている、ということが、最近のハーバード・ビジネス・レビューに出ています。顧客の支持があると、顧客同士がいろいろな形で友達に伝えてくれたりすることが大きいと、書いてあります。

経済学やその隣接学問分野で、信頼がどのように扱われているのか、また、最近、何故、信頼という概念がいろいろな学問分野で注目されているのかをお話したい。

ノーベル賞を受賞したケネス・アローという経済学者は、信頼は市場では取引できないが、非常に価値のある財であると言っています。信頼があれば、納期に間に合うだろうかとか、品質は大丈夫だろうかとかについて、事前に情報を集めるようなコストをかけなくとも済むし、何らかの不都合があっても十分な補償がなされるとの期待があることが、非常に大事であるとアローは言っています。

これを敷衍したのが、オリバー・ウイリアムソンで、不確実性の中での信頼の存在が、取引費用を大幅に減らすと指摘しています。品質が価格に体現されるため、価格の動きを見て消費者や生産者が行動しますので、価格がシグナルになっていると考えられています。しかし、価格以外の要素が大きくて、それは取引費用であって、それを削減するためには、いろいろなやり方があると言っています。たとえば、企業系列というような中間組織もそうですし、法制度や文化もそうだと指摘しています。

政治学者のフランシス・フクヤマは、高信頼社会といわれる国では、効率的な生産が可能で、経済成長も高いと言っています。ロバート・パットナムは、アメリカで高信頼社会を形成するのに寄与しているのは、教会の活動とかボランティア活動であると主張しています。ボーリングやパーティなどの経験が役立っているとも指摘しています。しかしながら、アメリカではこの25年間に大きな変化があって、このような信頼を形成するような、深い人間的な交流を図る仕組みがどんどん崩れていることに、パットナムは危機感を持っています。日本でも、信頼を形成する仕組みがどのぐらいあるのかが心配になります。

リスクと不確実性についてもお話したい。リスクというのは、予測可能な事象です。火災とか自動車事故などです。これに対しては、保険で対応できます。問題は、想定外の事象である、不確実性のあるものに対する対応が大きな問題です。ただ、ギデンズが指摘しているように、科学技術の発達で近代のおけるリスクは、規模も影響範囲も大きくなり、地球環境問題のように一国にとどまらなくなっています。また、借りたものを返す、約束を守る、時間を守るというような経験の積み重ねでできるものが、信用です。

不確実性を減らすものとして、情報が大きな役割を果たしています。情報収集によって不確実性を減らすことができます。ただ、企業と消費者の間では、持っている情報量が大きく違うことと、また、企業が製品やシステムについて情報を持ってはいるが、マイナス情報をあまり出さないという質的な違いもありあます。

日本のネット社会を考えるときに、経営学でいう暗黙知と形式知という区分が問題になります。暗黙知は言語化しずらい。ネットでもボードに書きこみをする場合にも、感情的になってしまったり、紋きり型のメッセージのやりとりになったりします。iモードでのコミュニケーションでも、考え練るとかには役だっていない、また、浅い人間関係はできるけれども、それ以上のものは避けるというような指摘もあります。

(2)山岸俊男氏「ネット社会における信頼と評判システム」

現在、アメリカで関係資本(Social Capital)研究の第一人者であるロバート・パットナムが、ボンディング型の関係資本とブリッジング型の関係資本の2種類の関係資本について書いています。わたくしは、これを結束型関係資本、関連型関係資本と呼んでいます。

ボンディング型の関係資本は、関係内部での結束を高める働きをします。それは非常に困難な状況に陥ったときに、その状況を切り抜けるのに役に立つ関係資本です。これに対して、ブリッジング型の関係資本は、関係を超えていろいろな関係をつないでいくことに役立つ関係資本です。

ここでは、ネット市場をいう言葉を経済学的な市場だけではなく。これからの社会のあり方のひとつを意味するという、広い意味で使います。その意味では、ネット市場というのは、信頼型社会の典型だろうと思います。つまり、ボンディング型の関係資本ではなく、ブリッジング型の関係資本によって形成される社会ではないか。そういったネット社会とかネット資本について考えることが、これからの社会と人間のあり方について考えることであろう、というのが今日の話のメッセージです。

わたくしの考えている「信頼」はリスクテーキングを前提にしています。人を信頼するということは、普通、リスクがない状態と考えますが、そうではありません。人を信頼するというのは、裏切られる可能性がある状況でこそ意味があるのです。そういう裏切られる可能性のない状況では、人を信頼するかどうかを考える必要がありません。

うそをつくと、喉に埋め込まれた針千本マシーンが喉に刺さるようになっているとすると、その人の言うことにはうそがないことが分かります。わたくしの考えでは、そのいうのはその人を信頼していることではないんだ、ということです。その人の言うことは安心して聞くことができますが、信頼していることにはなりません。自分が進んでリスクテーキングしていくという側面を含んだときにこそ、信頼が重要になると考えています。

現在の日本社会を考えるときに、「信頼」が非常に重要な概念になると思います。それで、何故信頼が必要なのか、何故、人を信頼する必要があるのだろうかということを考えることは、何故われわれはリスクテーキングをしなければならないかを考えることと全く同じ問題です。答えは、信頼が報われたときに得られる利益があるからです。それがなければ、人を信頼する意味は全くありません。

信頼研究はいろいろな分野で行われていますが、一番進んでいる分野が、ゲーム理論の分野です。ゲーム理論での信頼研究に使われる典型的なゲームの構造が信頼ゲームと呼ばれるものです。

この信頼ゲームの場面を見ますと、第1プレーヤーと第2プレーヤーがいます。そして第1プレーヤーは相手を信頼するかしないかというチョイスを持っています。相手を信頼しないときには自分は1,000円もらえます。第2プレーヤーも1,000円もらえます。これに対して第1プレーヤーが相手を信頼するチョイスをしたとします。そうすると、第2プレーヤーは信頼を裏切るチョイスと信頼に応えるチョイスを持っています。こうしたときに、第2プレーヤーが信頼を裏切ると、第1プレーヤーは手取りがゼロになってしまいます。しかし、第2プレーヤーは5,000円もらえます。これに対して第2プレーヤーが信頼に応える選択をすれば、第1プレーヤーは3,000円もらえます。第2プレーヤーも3,000円もらえます。これをゲーム理論的にバックワード・ディダクションをしますと、当然、第2プレーヤーはこちら(3,000円)よりも、こちら(5,000円)のほうがいい。そうすると、第1プレーヤーは、相手が合理的に選択すると考えれば、自分は信頼すればゼロ円しかもらえないということで、信頼しないというチョイスをすることになります。ということは、これを(信頼しない)選択することになるわけですね。そうすると、お互い1,000円ずつしかもらえない。しかし、第1プレーヤーが相手を信頼して、その信頼が報われたときには、お互いに3,000円ずつもらえるわけです。

これが何故信頼するか、何故われわれは人を信頼しなければならないのかというゲーム理論的な構造です。つまり、信頼して報われると、それに伴う利益があるということです。今回のお話は、この基本的な前提を確認することから始めます。

こう考えると、ネット社会では、信頼がますます重要になってくることがわかります。何故かといえば、1対1、対面的な関係では、怒鳴ったり、殴りつけたり、感情を示したりして、相手の行動をコントロールする方法があるのに対して、ネット上では相手を直接コントロールする方法が基本的にはありません。ということは、それだけリスクが大きくなるということです。と同時に、いろいろな関係が広くなってくるので、得られる利益も大きくなります。すなわち、リスクも大きくなるが、得られる利益も大きくなるということです。したがって、ネット社会では、信頼というものが非常に重要になってきます。

しかしながら、ネット社会での信頼を考えるときに、大きなジレンマがあります。すなわち、リスクを避けようとすると、得られる可能性がある利益を放棄することになります。といって、リスクテーキングが単なるギャンブルでしかないような状況においては、リスクテーキング、または、人を信頼するということは、愚かな行動になってしまいます。これがわたくしが「信頼のジレンマ」と呼んでいるものです。

次に考える必要があることは、リスクテーキングはやみくもなギャンブルではないということです。そうではなくて、リスクテーキングは、リスクを考え尽くして行うことなんだということです。このことを、わたくし自身は2種類の社会的知性という概念を使って、社会心理学的に研究してきました。

この2種類の社会的知性の一つは、地図作成型、あるいは安心追求型とかコミットメント型と呼んでいる知性です。この知性は、社会的な地図を作る知性で、誰が誰に好意を持っているかとか、誰と誰が仲がよいとか、そういう社会的な地図を作って道に迷わないようにする知性です。こういう地図を作ると、うまく立ち回りができます。けれども、その関係が固定している場合には地図は役立ちますが、関係が固定していないと地形が変わってしまいます。

そうしたときに役立つのが、わたくしがヘッドライト型とか探索型と呼んでいる、もう一つの社会的知性です。地図がなくても、どんな状況においても使うことのできるのがこの知性で、これからこのような知性が必要になってくると思います。

このことについていろんな実験をやって考えてきました。これは6つの実験の例が出してあります。どういうことをやったかといいますと、最初に実験に参加する人たちの一般的信頼のレベルをはかっておきます。これは質問紙ではかるわけです。高信頼者、中信頼者、低信頼者という形ではかっておきまして、お互いに囚人のジレンマのゲームをさせます。時間がなくて詳しい説明はできないんですけれども、要するに相手が自分を裏切るような行動をとるかとらないかというようなゲームです。

何人かで実験に参加するんですけど、ほかの人たちは、こういった実験で人を裏切るような行動をとるのか、それとも人の信頼に応えるような行動をとるのか、そういうことを予想させます。そうすると、常識的に考えますと、人を簡単に信頼するような高信頼者というのはだまされやすいお人好しだろうというふうにみんな思うわけですね。ところが、実際に実験をやってみますと、高信頼者のほうが低信頼者よりも一貫して、こういった状況での他人の行動を予測する能力が高いのです。この場合、特定の人間が特定の人間に対して協力するか裏切るかではなくて、不特定の人間に対してどういう行動をするかということを予測させております。

関係に拘束されないような行動を予測するにあたっては、人間は信頼できると思っている高信頼者の方が、低信頼者よりも賢い人であることが、これまでのいくつかの実験で分かってきました。高信頼者というのは、やみくもに人を信頼しているのではなく、信頼できるかどうかを考えるけれども、とりあえずは信頼できると思っておこうという人たちだということです。

これに対して、低信頼者は人を見たら泥棒と思えと最初から決めつけていて、試しもしないため、他人の信頼性を評価する能力が育たないし、そういう経験をすることもできません。そういう能力が身についていないので、リスキーな状況になると騙されてしまうことになるのです。そうすると、ますます人は信頼できないというように思い込むことになります。

このような実験が意味することは、高信頼者はむやみに人を信頼するギャンブラーではなく、他人の信頼性を判断する高い社会的知性を持っている人であるということです。では、低信頼者は社会的知性の劣る人たちかというと、多分、違うと思います。そうではなくて、低信頼者は高信頼者と異なる社会的知性を持っていて、わたくしの研究では、低信頼者は地図作成型知性に優れているのです。誰と誰が仲がよいとか、誰と誰がくっついているということをいつもよく見ていて、そういう情報は的確に判断できる。けれども、そういう関係に拘束されないような状況では、人が何をするかの判断がうまくできない。

つまり、低信頼者は地図作成形知性に優れている。これに対して、高信頼者は、関係に拘束されない人間性の判断に優れているということが、実験結果から出てきました。ということは、社会関係が安定して、固定している社会では、地図作りがうまくできる人の方がうまく適応できます。これまでの日本の社会は人情の機微に優れている、誰も知らないことをよく知っている人たちが、うまく立ち回れる社会です。

これに対して、ネット社会というのは、そういった固定的な関係を持つ重要性が小さくなるので、これよりは、固定した関係から離れたつき合いが必要な社会になります。そうすると、多分、人間性の判断に優れた高信頼者が有利になっていくでしょう。これには、人間性だけではなくて、インセンティブの構造の判断も多分含まれることになるんだろうと思います。集団主義的な社会では、誰が誰に好意を持っているかを判断できるような社会的知性が有利ですが、しかし、地図に載っていない関係ではお手上げになってしまう。つまり、安心できる範囲外の人たちは泥棒と思ってしまいます。

これに対して、誰に対しても開かれたネット社会では、社会的地図作りよりも、その場での情報を使った信頼性判断が必要とされると思います。ここで重要なのは、いくら他人の信頼性を判断するための情報処理能力にたけていても、必要な情報が提供されなければ、他人を信頼することは、リスクテーキングではなく、ギャンブルになってしまうということです。したがって、必要な情報が提供されるかどうかが、これからの社会で重要なことになります、

自生的な秩序形成ということ考えるときに、ネット社会では外的な規制ではなく、自生的に規制することによって、機会を制限するのではなく、機会を生かしながら秩序を作ってことが重要です。このためには、情報をいかにうまく提供して、それを利用できるようにしていくかが、非常に重要です。

このためのキーワードが「評判」です。これから必要な作業は、正確な評判を提供するためのインセンティブ・コンパティブルな評判システムを作っていくことだと考えています。この「評判」というのは、広い意味で言っています。たとえば、企業のブランドです。このようなものがこの「評判」に入り、大きな資産価値を持つようになります。情報の非対称性があるなかで、いかにして適切で、正しい評判システムを作るかを考えることが、われわれのこれからの重要な作業になると考えられます。

「インセンティブ・コンパティブルな評判システム」というのは、適切な正しい情報を提供することが、情報を提供した人にとっても利益になるようなシステムです。われわれの研究室では、新しい実験を開始しています。情報の非対称性のあるようなネット・オークション市場みたいなものを実験室の中に作って、そういうところでどうしたら適切な評判の使い方ができるようになるのかを調査するための実験を開始しています。

私は社会学者ですので、社会科学者であると思っています。社会科学者がずっと夢を見てきたのが、自律的、自生的な秩序です。人に強制されるのではなく、自分たちで秩序を作り出す。これが、社会科学者の夢です。もし、うまく評判システムなり情報を利用するモニタリング・システムを作ることができれば、ネット社会はこういう社会科学者の夢を実現する社会になる可能性があります。

しかし、これに対するもう一方の極が、皆さんご存知の「1984年」という小説に書かれているテクノ全体主義です。つまり、技術が進歩していくと、テクノ全体主義的な完全な管理社会を作ることもできるし、逆に、自生的な秩序を作り出す可能性も生まれてくるのではないかと思います。今日は、インセンティブのお話をしましたが、同時にテクニカルなインフラである評判システムをどう実現していくのか、そういった問題も多く残されているので、簡単にはいかないだろうと思います。

(3)牧野二郎氏「ネット市場における信頼〜Eコマースの根源的問題を考える」

アカデミックな話が続いた後で、突然地の果てに落とすような話をしそうで、自分自身不安に思っていますが、問題提起としてお話したいと思っている点は、次のようなことです。Eコマースをやりたいとご相談を受けます。その中では、ホームページの契約をどうやって、どういう決済方法をとれば、Eコマースがうまくいくだろうかというようなこと、また、さまざまなネットワークを作って物を売りたい、というような技術的な、あるいはネットワークを作りたいということでご相談があります。

ただ、お話していて思うのは、何故商取引を電子的にやるのだろうか、何のために電子商取引をやるのだろうか、ということがほとんど理解されていません。ブームでやっているとしか思えないようなケースが非常に多い。したがって、やると必ず失敗します。失敗すると必ず被害者が出てくるというような構造が出ています。問題があると思うのは、政府が援助金を与えて実験というような実証的なことをやったり、地方公共団体が資金援助をしたり、融資制度を作ったりしていますが、本当に有意義な金の使い方ができているのかが、私には分かりません。そういう意味で、何のために、どういうことを狙って電子商取引をやるのかを真剣に考え直してみたら良いのではないかと最近強く思っています。

電子商取引を進めるメリットとは一体何なのか。たとえば、最近の例では、あるメーカーのパソコンが調子が悪いので、連絡しました。すぐに直しますと言われて、持ち込んだところ、まさにすぐ直していただいて、快適に使えるようになったことがありました。そのときに、やっぱりパソコンは自分の家の近くで買うものだな、もしこれを遠隔地で買ったらとんでもないことになるな、というように強く感じました。わたしくはインターネットが大好きで、インターネットで小さい物は買いますが、やはり壊れてみて、これは違うだろうということを、つい数日前に経験をいたしました。

そうなると、電子商取引がわれわれにもたらしてくれる利益は、一体何なのか。電子商取引をプロパーで考えて、何か新しい、何か別の世界が繰り広げられるというように見るべきなのかどうか、その辺について皆さんと一緒に考えたいというのが一つあります。むしろ、今の例で挙げたように、物流と情報流通はというのは違う側面があるだろう。物流の話を情報流通の話の中に無理に押し込めるような今までの議論はもう止めた方が良いのではないか。物流はあくまで物流だろうと。そうすると、ITをどこで、どう生かすかということを考えるべきだと。そこで、情報流通にだけ、あるいは情報流通として特化できるものは一体何なのか、このあたりの棲み分けがどうしても必要であると思います。

武蔵先生のお話を聞きながら、信頼の揺らぎというのか、現代社会が非常に揺らいできている、従来の信頼関係がどうも弱体化していることを強く感じました。私流に理解しますと、インターネットが見えてきて、利用者が企業の前に立ちはだかって、さまざまな攻撃をかけたり、あるいは批判したり、行動に出ていることを見ると、企業というものが必ずしも絶対のものではないということが消費者が分かり始めてきた。その意味では、企業対消費者の今までの力関係、あるいはある種の信頼関係が大きく崩れてきていると思います。

生産構造、あるいは消費構造が、インターネットを通して徐々に変化しているだろうと。昨年1月でしたか、日経新聞の1面に「商費者」という新しい言葉が紹介されていて、強い衝撃を受けました。「自ら商い、そして自ら使う」。そういう人を指して日経の記者が使っていた。私は時代の変化を見事に射抜いた言葉だろうと思っていました。要するに、消費者が同じものを食べ、同じものを着るという、上を向いて上から落ちてくるものを待っている。企業の方も、おそらくこれが欲しいのだろうということでアンテナを立てながら、物を作り上から大量に流していっている。言葉は悪いが、これは豚であると理解しました。ご飯ではなく、餌を与えられる。キチンとした服ではなく、作業着を与えられる。それに甘んじて、食べたり、着たりしていた、というのが今までの生活ではなかったのか。

インターネットというのは、いろいろな垣根を取り払うことになりました。したがって、われわれが商いを自らするというようなことが出てきています。まだ動きは小さいようですが、自分たちの好きなパソコンを作りたいという人たちがグループを作って、自分たちで設計図を書いて、専門家が集まってパソコンを作るというようなことを聞きました。また、自分たちの食品が欲しい、無農薬のものが欲しいということで、横の連携をとりながら新しいオーダーを出していくようなことが進みつつあります。

NECの元副社長の鈴木さんという方と、毎日新聞の座談会でお話する機会がありました。鈴木さんは、これからの時代はオーダーメードの時代で、オーダーにキチンと応えられるかどうかが、これからの企業の生き方を決めるというようなことを言われました。わたくしの考えていた「商費者」という字と見事にリンクして、びっくりした記憶があります。こうした意味で、われわれが一つ一つ要求を出して、それがまとまって作られていくというようなオーダーメードの時代、あるいは消費者の時代になってくる。企業と消費者の位置関係が変わりつつあるのだろうと思います。

そうしますと、今まで企業は万能でした。逆にいうと、企業は英知の塊で、そして消費者は馬鹿なので、危険なものを流し込んでいけない、ということで、PL法を作り、消費者契約法を作り、馬鹿な消費者を守るというスタンスをずっと守ってきました。ところがインターネットがさまざまな発言をさせる、個人にも国家に対峙するような力を与える可能性がある中で、表現行為あるいはさまざまな行動が可能になる仕組みを作ったことから、ある種の日本型の、あるいは戦後の信頼関係を支える仕組みが揺らいできたと見なければいけないのだろうと思います。

果たして、われわれが新しい時代に、あるいはネットワークの時代に、高信頼者というのか、そういう信頼を確保しながら前に進むような人間になり得るのかどうか、フラットな社会でわれわれがそういったようなことで、前に進めるのかという点で、大変複雑な思いを現在感じています。

というのは、現在さまざまな掲示板が世にあふれていて、大変な人気を博しています。その掲示版の中で、企業批判が強く行われています。これを大変多くの人が見にいっているという現実があります。そして、企業の方は、自分の会社の株価がそのことによって下落するということで、びくびくしているというのが現実です。そして、それを見抜いた形で、掲示板を通して猛烈なアクションを起こしている人たちが山ほどいます。

その意味では、高信頼型の人間があふれているとは到底思えません。むしろ、非常にとげとげしい動きが広がっているのが実際だろうと思います。この中で、本当に信頼の確保ができるようなスタンス、あるいは信頼の枠組みができるのかどうか、非常に微妙なところに来ていると思っています。何が微妙で、何が危険かというと、新しい信頼のスキームをキチンと頭の中で描ききれていないことです。要するに、この社会をどのような信頼の仕組みでリードしていくのかについての確信がほとんどないことが、大変危険な状況を生み出しているのだとわたくしは思っています。

現在の段階では、企業人を中心としたところでの大変強く深い不信感といいますか、信頼欠如といいますか、不安感が蔓延していると思っています。今日のシンポジウムでは、そのような状況を踏まえた上で、新しい信頼関係をどう作るのか、どういうものがスキームになっていくのかということを意識的に追求してみたいと思っています。


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