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2010年11月10日掲載

電信電話記念日の意義を見直す

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 先月10月23日は61回目の電信電話記念日でした。人間の年で言えば、ちょうど還暦に当たる年を迎えたことになります。戦後、明治以来長く続いて来た逓信省がGHQの指示の下、郵政省と電気通信省とに分割(二省分離)された際、1950年に電気通信省によって、この電信電話記念日が制定されました。(当初の数年間は省名に合わせて、電気通信記念日と称していました。)

 戦後、戦災でダメージを受けた電気通信設備を復旧・復興し、電気通信サービスを広く国民に普及させる目標を持って、米国流の考え方に従って電気通信事業運営を独立し、さらに1952年に日本電信電話公社が発足する流れが始った年でした。従って、電信電話記念日それ自体が、戦後日本の復興の意気込み、国家戦略の一つとなっていたと考えられます。

 今日、国の戦略が議論されているなかで、ブロードバンド構想や情報通信(ICT)利活用策が推進されていますが、まさに、還暦を迎える電信電話記念日の今日的意義も、そこにあるものと考えます。戦後の電気通信の復興、普及・拡大は国家的に成し遂げられましたが、新しい戦略が混沌としている今日、情報通信サービスの役割、さらには情報通信事業の国家戦略的意義を考える良い機会となるのが、この電信電話記念日ではないかと思います。

 そもそも、電信電話記念日が10月23日となったのは、1869年10月23日(旧暦 明治2年9月19日)に東京・横浜間で電信線架設工事に着手したことを記念したものです。電報の取り扱いは、1870年1月26日(旧暦では同じ明治2年12月25日)に開始されました。これは、日本で最初のインフラ事業であり、情報を扱う事業から近代日本のインフラ建設が始ったのです。電信事業開始以降、郵便(1871年)、鉄道(1872年)、ガス(1872年)、電気(1878年)、水道(1887年)、放送(1925年)と、次々とインフラ事業が開始されています。最初に情報を根幹に置く、明治の指導者の戦略眼の偉大さに驚くばかりです。1869年(明治2年)と言えば、戊辰戦争の続き、函館五稜郭の戦いが5月に終わったばかり、その年、既に国家運営上、情報の必要性を高く評価して直ぐに電信線の敷設に取り掛る判断は、明治国家建設の道筋として見事としか言いようがありません。明治維新、回天の大業においては、思想家や行動家の吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、坂本龍馬らが多く取り上げられますが、実は、その背後で近代国家建設に当たった実務家の戦略的判断こそ教訓とすべきところが多いと感じています。電信事業の推進者は、薩摩出身の寺島宗則外務大輔(後に、電気通信の父と呼ばれる)ですが、同じ通信関係では、郵便の父と呼ばれる前島密に比べると、一般には知られていないことが残念でなりません。

 また、電気通信事業について言うと、東京・横浜間で電信が開始された後、全国に拡大して行き、4年後の1873年(明治6年)には東京・長崎間に電信が開通します。長崎には、1871年(明治4年)に既に、ロシアのウラジオストックからの国際海底電信線が陸揚げされていましたので、長崎までは欧州はじめ世界と繋がっていましたが、これにより、ようやく東京が世界と繋がることになりました。長崎への国際海底電信線敷設に際して、事業を行うデンマークのグレート・ノーザン・テレグラフ社(大北電信会社)と交渉し、日本の国益を守って実現させたのも、寺島宗則でした。こうした戦略的判断と行動によって、明治国家日本は情報面で世界と繋がり、世界と伍して行く基盤が作られたのです。電信線敷設工事開始が、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の描く日々(1867年・慶応3年)のたった2年後とは、とても信じられません。

 電信電話記念日の由来から141年、記念日の制定から60年を経た現在、情報通信事業に携わる沢山の事業者、そして利用する私達合わせて、歴史を学び、改めて情報通信の国家戦略上の意義を見詰め直して、新しい時代に向けて深く研究し、先見性のある戦略を築き上げていく時です。広く、多くの人達に、電信電話記念日の存在を知ってもらい、情報通信の大切さ、意義を再認識してもらう機会が増えることを願って止みません。

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