トレンド情報-シリーズ[1999年]

[IT業界レポ]
[業務編−第6回]ERP・SCMと製造・物流業(2)

(1999.4)


 いよいよIT業界レポートも最後になりました。前回に続いて今回もERPやSCMに関係する製造業のお話をするのですが、日本の製造業と産業構造、産業政策について、つい最近気になる書籍があります。「腐りゆく日本というシステム」リチャード・カッツ著東洋経済新報社発行という本です。きわめてショッキングな題名の本ですが、カッツ氏は著作の中で1955年からバブル以後の今日までの産業、特に製造業に対する政府の政策や産業構造を豊富な資料をもとに分析してくれています。日本の成功と失敗を外国人に新たに教えられた思いがします。カッツ氏が提示する日本の産業構造、特に製造業の二重構造は、競争力のある輸出産業企業と政府に保護された競争力のない国内産業企業がともに存在することから多くの歪みを生み出してきたことを指摘しています。残念ながら日本訳書は参考資料が省略されているために多くを詳細に考察できませんが、原書は本文の分量と同じくらいの参考資料があります。原書名はJAPAN THE SYSTEM THAT SOURED副題はThe Rise and Fall of the Japanese Economic Miracleで、著者Richard Katzです。

 日本の企業経営者はカッツ氏の著作に多くのことを学ぶことができると思います。日本政府に保護され、あるいは業界全体のためにと企業経営を制限された歴史がこの本には述べられています。日本の消費者を欺き、世界に対して一人よがりな産業政策を行ってきた日本政府、業界の利益だけを追求した産業カルテルの存在、そして奇妙な産業構造の二重構造が日本の産業、特に製造業に生じてきた過程の分析はみごとです。資本主義における競争の公正さから、いかに日本政府と日本企業が逸脱していたかこの本は教えてくれます。さらに、世界的競争力のない産業企業はどうなるのかこの本は暗示しています。

 ここでもう一人日本に関係する人物を挙げたいと思います。日本に来ては大田区の中小企業を視察して回り、日本の製造業の強さを学ぼうとしたりして有名なマレーシヤのマハティール首相です。日本では注目されませんでしたがマハティール首相は1992年10月に「ヨーロッパ・東アジア経済フォーラム」において「もし日本がなければ世界とアジアはどうなっていたか」という演説を行いました。マハティール首相は「日本人よ、あなたがたがいたからアジアは進歩し、世界は安定している」と日本にエールを送ったのです。

 かって欧米主導の近代化を進めた国家に成功事例があるかを述べながら、日本の成功事例があったからこそ東アジアは劣等感にさいなまれることを克服して、日本を信じ自分達の力を信じ発展することができたと演説しました。欧米型の近代化でアフリカや南アメリカが成功しているかと欧米諸国代表に訴えました。マハティール首相は就任と同時にアフリカの国々とおなじようにイギリス資本に独占されていたマレーシア企業をマレーシアが持っている資産のすべてを使って、ロンドン市場に上場していた株式を買い占め買収して国営化してしまいました。このようなマハティール首相に「日本なかりせば」の演説以後欧米からの過激なパッシングが起ります。残念ながら日本はマハティール首相のエールにこたえることはありませんでした。マハティール首相を見ていると日本の明治の近代化に努力した人々が思い浮かびます。日本の近代化の原点に位置した人々のバイタリティがマハティール首相の言動や行動に見える気がします。

 最後にもう一人登場してもらいましょう。ピーター・F・ドラッカーです。ドラッカーは最新の「日経ビジネス」(1999年4月5日号)に「コンピューターに騙されるな」というこれもショッキングな題名でインタヴューにこたえています。永年の経験、豊富な知識で現在のIT業界を論じています。ドラッカーは現在のハイテクは社会構造を変えるまでにはいたっていないこと、データ分析や顧客の声からは本当の需要は見つからないとしながらも最後は混迷期を国家独立に尽くした明治の指導者に学べと括っています。技術は目的ではなく、目的達成の手段に過ぎないことをあらためて考えさせられます。

 IT業界の人間としては、これまでも触れてきましたが7000社も1万社も同じSAPのパッケージを採用して、ベストプラクティスでどこに企業経営の競争力が生まれるのか?企業が本当に必要としているのはベストプラクティスではなくオンリーワン・プラクティスではないのか?企業の競争力の源泉はその企業にしかない独自性ではないのか?ありふれたベストプラクティスで乗り越えられるほど世界的な産業構造の変化は生易しいものではないと考えます。ただ生産性が極端に低くなってしまった日本企業にとってありふれた世界基準の生産性に追いつくのも今では難しくなりつつあります。世界的競争力のない生産性の低い産業企業に補助金という国民の税金を投入する余裕も政府にはなくなりました。競争力のある生産性の高い産業企業は国内の生産性の低い産業企業の高コストを負担できず海外に出て行きました。競争力のある輸出企業ほど世界価格よりはるかに高い国内価格購入負担に耐えられなかったのです。日本人は生産性の低い産業企業を守るために世界水準より高い価格で消費生活をしてきました。国内では日本人に高く売り、海外では補助金という税金をもらい安く売り、海外での市場を公平でない方法で拡大するという日本企業の構造は完全に崩れてしまいました。自国民に高く売り付け、海外では安く売り、他国の市場を獲得することがダンピングだと非難されてもしかたがなかった方法で外貨を稼いできました。競争力のない産業企業の転換を進めるのではなく、保護し逆に競争力のある産業企業が出て行ってしまい、滅ぶ企業だけが残ってしまった日本の行きづまりが現在だと思えます。カッツ氏の著作によれば、過去8年間で松下電器は13万1千人から26万6千人に従業員が増えたが、日本で新たに採用されたのは6000人に過ぎなかったと言っています。また、日立製作所は17万1千人から33万2千人に増大したが日本での雇用は逆に1000人減少したとも言っています。日本企業の海外での雇用はすでに300万人を超えています。しかも競争力のある輸出企業が海外に出て行った結果です。この雇用が日本に残っていたらと考えるのは私だけでしょうか?

 現在、日本企業の3重過剰は解消されていませんし、産業構造改革も終わってはいません。設備過剰、人員過剰、不良債券過剰の3過剰の整理と産業構造の転換を考えると今後失業率は更に上がり、不景気は慢性的に続くと考えられます。犯罪率も増加し、社会生活自体脅かされる状況も起りえます。過去とは違い、現状刑法犯の50%が未成年であり20%が外国人で大人の犯罪者は30%に過ぎない。つまり犯罪率は過去の3倍以上になってしまったことになります。外国人犯罪と未成年犯罪はこれから増えることはあっても減ることはないでしょう。日本社会は我々の気づかないうちに確実に変容しています。安全であった空気や水もそうですが、社会生活を営む治安さえも将来大きく変容するでしょう。

 現在の日本企業が悩んでいる本質は、企業経営における前提となる枠組みが変化していることにあります。企業経営の軸をどこにおけばいいか分からなくなってきているのです。地球的限界によるこれからの制約は企業にとって新しい枠組みです。産業廃棄物や二酸化炭素排出規制、製造物責任、廃棄製品回収責任など企業間競争以前に対応しなければいけない要素は多く存在します。グローバル経営やコンピタンス経営は世界を利益の源泉である市場としてとらえていますが、利益率や効率性による企業競争力よりも重要なことがあると考えます。それは正義を持った公平な企業経営です。日本とアメリカが肉食を10%減らすだけで、発展途上の国々の1億人が栄養失調や餓死の危険から救われます。肉1Kg生産するのに穀物5Kgが必要です。日本人とアメリカ人が肉を食べるために穀物は必要であり、その結果肉食が増えると穀物の価格が上がり、発展途上国は穀物を十分に購入できなくなるのです。中国が現在急激に肉食を拡大してきています。日本水準に肉食を中国がし始めた時は世界の穀物価格はどれほど上昇するのか?地球規模の供給が可能なのかと考えてしまいます。富める国の国民は肉を食べ、そのために十分な穀物が買えず、餓死して行く人々がいる状況は悲惨です。企業は何のために存在するのか?株主や従業員、顧客だけでなく自らの経済活動で生み出された経済格差についても責任はないのか?かって環境への配慮を欠いた経済活動によって地球環境は限界へと来ています。資源の枯渇、環境の悪化、それらはいまやっと企業にも責任があると考え始めています。ならば世界的規模で資源を使用する企業は世界的経済格差についても配慮すべきなのです。今日本企業に求めるとすればマハティール首相のように勇気を持って、日本人にではなく人類全体に正義と公平を持った企業経営をお願いしたい。政府援助やカルテルやダンピングという姑息な手段で利益を蓄え投機に走るのではなく、公平な市場競争に打ち勝ち、性別や年齢、国籍に左右されない人間の可能性を拡大する企業経営を全世界に広めることをお願いしたい。日本企業に世界中の有能な人材が続々と社長を目指して入社してくるような世界に開かれた企業になってほしい。それができた時、日本企業は世界企業として最も世界競争力のある企業に生まれ変われるでしょう。いつの時代も競争力の源泉はやはり人間なのですから日本人だけの知恵では世界企業としての限界があります。

 さて、本題のERP・SCMについてお話しましょう。ERPとSCMに関する記事を日経4紙(日経産業、日経金融、日経流通、日経新聞)で調べてみました。1997年はERPは67件、SCMは4件でした。1998年ERPは165件、SCMは107件と急激に増えていました。SCMの急激な記事の増加を見ても注目の度合いが分かります。サプライチェーンの本質は最適化です。制約条件下で活動の最適点を探し出す考え方です。したがってコンピューターとは本来関係ないお話でした。あくまでも最適化の手法のことでしたが、SCMパッケージ・ソフトが出てきてからは考えとパッケージが混同されました。自動的に最適点を探してくれると勘違いされ始めました。欧米でもSCMパッケージは最適化理論を理解している専門の人間が担当していて、一般社員は触れられないソフトなのです。最適化シュミレーションソフトがSCMであり、最適点を探すのも簡単ではないのです。企業によっては最適化理論を知っていればモデリングしてSASやLINDOのほうが簡単で分かりやすく有効な場合もあります。SCMの本質はシュミレーションであるわけですからもとになるデータが必要です。購買、製造、物流、販売にいたるデータの量と質にSCMの結果は左右されます。データがメインフレームやオフコンのレガシーシステムであろうがERPシステムであろうが関係はありません。SCMの精度はデータがすべてなのです。ボトルネックの発見と改善はシステムでなくとも可能であることは「ザ・ゴール」の著者エリヤフ・ゴールドラットも認めています。ERPもそうでしたがSCMも同様に企業にとっては道具に過ぎないのです。企業の本質はシステムではなくその企業で働いている人間の競争力の総和にすぎません。ERPやSCMも、もともと競争力のない企業を助ける魔法のシステムのように言われますがそうではありません。企業に必要なのは企業のライフサイクルを永遠にできるだけの普遍性です。グローバル企業と言うなら世界に向かって企業経営の正義と公平さを示し、日本人だけで固まった考え方をせずに世界中からの人材を受け入れて世界企業たる自信を見せてほしいものです。日本企業は企業経営にまだまだ外国人が足りない。日本の政府や社会に貢献することよりも世界に貢献する道を考えた方が、これからの時代日本企業は生き残れると思います。企業は人間とは別のものとは考えません。企業は人間の集まりです。企業競争力とは企業に働く個人の能力の総和に過ぎません。日本の現状はまさに日本人一人一人の競争力が世界水準から見た時、劣ってしまった結果なのだとも考えられます。日本人に個人における世界競争力を意識している人がどれほどいるか疑問ですが、世界水準での個人の雇用価値を考えていかねばならない時代が来ていることを認識すべきです。だから、企業再生の前に日本人再生がなければ現在の日本を変えることはできないのかもしれません。新しい経営思想やシステムに頼っても企業は救われません。日本人も政府や企業に頼るのではなく、日本人一人一人が21世紀に向かって世界的雇用競争力をつける再生の努力を始めることが企業や社会を再生させることになると私は確信します。

 

中嶋 隆

(入稿:1999.4)

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