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Global Perspective 2013
2013年3月11日掲載

シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』:東日本大震災から2年

(株)情報通信総合研究所
グローバル研究グループ
佐藤 仁
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佐藤写真

2013年3月11日、東日本大震災から2年が経ちました。
被災された方々には改めて御見舞いを申し上げます。

『スモール イズ ビューティフル』

2013年3月11日、東日本大震災から2年を迎える。東日本大震災と原発問題は、技術の発展と進化について一石を投じた。今年もまたシューマッハーの『スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学』(1986年 講談社学術新書)から技術と人間の在り方について模索していきたい。原題は”Small is Beautiful: A Study of Economics as if People mattered”で1973年に刊行され、日本語訳は1976年、1986年、2000年と3回出ている。
昨年のレポートと重ねてご高覧頂ければ幸いです。

シューマッハーと原子力問題

シューマッハーは1960年代から人間が科学技術の発展に夢中になってしまい、資源の浪費、自然破壊に繋がる科学技術の発展に対して警鐘を鳴らしている。チェルノブイリ事故も福島の原発事故も起きる前から原子力問題の危険性と重要性を説いていた。
 当時は非常に異端であった彼の主張は40年以上が経った2010年代の現代社会では考えるべきことが多い。

人間が自然界に加えた変化の中で、もっとも危険で深刻なものは、大規模な原子核分裂である。核分裂の結果、電離放射能が環境汚染のきわめて重大な要因となり、人類の生存を脅かすことになった。(中略)核分裂というものが、人間の生命にとって想像を絶する類例のない特殊な危険だということが、まったく配慮されておらず、口の端にも上ったことすらないのである。(中略)保険をかけようがかけまいが、危険は危険であって、これこそ経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の「採算性」にしか目を向けていない例である(※1)。

この本が最初に出版された1973年、シューマッハーは原子力について以下のような問題提起を行っている。

人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。その問題とは、原子炉が壊すことも動かすこともできず。そのまま、たぶん何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならいこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を洩らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである(※2)。

40年の時を経て、原子力に関する議論は全世界で活発に行われるようになってきたが、まだ全ての問題が解決されたわけではない。

原子力の問題は現在、日本だけでなく全世界で現在進行形のイシューである。原子力があらゆる産業の基盤になっている。原子力無しで現在のような発展は達成できなかっただろう。そして現在は技術の進化、経済成長、発展を止めることは不可能に近い状態になっている。
 大きく発展してしまった現代社会の技術と、どのように調和を図って並存していくか、考えなくてはならない問題は非常に多い。

人間の顔を持った技術

科学技術は人間が作ったものであり、突然自然発生してきたものではない。人間が英知を結集して開発、発展させてきてものである。そして科学技術の発展は人間の持っている力を超越してしまい、いつのまにか手におえないものになってしまったのではないだろうか。人間は人間が作り出して、自らの生活を便利にするための科学技術に苦しめられることになってしまった。シューマッハーは「人間の顔を持った技術」について語っている。

技術というものは、人間が作ったものなのに、独自の法則と原理で発展していく。そして、この法則と原理が人間を含む生物界の原理、法則と非常に違うのである。一般的に言えば、自然界は成長・発展をいつどこで止めるかを心得ているといえる。成長は神秘に満ちているが、それ以上に神秘的なのは、成長がおのずと止まることである。自然界おすべてのものには、大きさ、早さ、力に限度がある。だから人間もその一部である自然界には、均衡、調節、浄化の力が働いているのである。技術にはこれがない。というよりは、技術と専門家委に支配された人間にはその力がないというべきであろう。技術というものは、大きさ早さ、力をみずから制御する原理を認めない。したがって、均衡、調節、浄化の力が動かないのである。自然界の微妙な体系の中に持ち込まれると、技術、とりわけ現代の巨大技術は遺物として作用する。そして、今や拒否反応が数多く表れている 。

技術の第一の役割は、人間が生命を保ち、能力を伸ばすための仕事の重荷を軽くすることだといえばよいだろう。どんな機械であれ、それが仕事をしているところを観察すれば、技術がこの役割を果たしているのがよくわかる(※4)。

人間は小さいものである

タイトルの『スモール イズ ビューティフル』には以下の含意がある。人間は自然の前では非常に小さい存在である。

技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間の真の必要物に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向でもある。人間は小さいものである。だから巨大さを追い求めるのは、自己破壊にも通じる(※5)。

人文科学の重要性

シューマッハーは科学技術の進歩から生まれた問題を処理するにあたって教育の重要性を強調している。詰め込み式の教育や科学技術のノウハウの伝授ではなく、シューマッハーが主張していたのは教育の核心は価値の伝達であった。

人間が生きていきための思想は、科学からは生まれてこない。もっとも偉大な科学思想でも作業仮説にすぎず、特定の研究目的には役立っても、人間はいかに生きるべきとか、世界をどう解釈したらいいのかという問題には役立たないのである。したがって、人間が疎外感を味わい、迷いに落ちたとき、生きることに空しく無意味と感じたとき、助けを教育に求めてみても、自然科学、つまりノウハウの研究からは解答を得られない。(中略)
科学は自然界や工学的環境の中でものごとがどのように動き、働くかに関しては、多くのことを教えてくれる。だが、生の意味については何も教えてはくれず、人間の疎外感や内面の絶望を癒してくれるものではない。
 では、どこにそれを求めたらよいのだろうか。おそらくは、科学革命だとか、現代は科学の時代だという宣伝にも関わらず、人は人文科学と言われる分野に目を向ける。幸運に恵まれれば、ここにこそ精神を満たす偉大な観念・思考の道具となり、世界や社会から自分の人生の意味を解き明かす観念を見出せるだろう(※6)。

科学技術が発展しすぎて人間の力を超越した時、人間は自分の生き方を探すようになる。その時に人文科学が有益だとシューマッハーは述べている。価値観、すなわち人生をいかに生きるべきかについての観念の伝達である。人文科学とは人間観を明示している学問である。

生きていく道標を探したり、あまりにも巨大で太刀打ちできない自然の脅威や発展しすぎた科学技術の大きさに困惑した時には人文科学の書を紐解いてはいかがだろうか。古代から人類の英知が結集されている人文科学の書物の中から人間が生きていくうえで何かしらのきっかけが見つかるかもしれない。

(参考)大震災から1年、シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』を読みなおす

*本情報は2013年3月11日時点のものである。

※1 「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(講談社学術新書 1986) P177-178

※2 「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(講談社学術新書 1986) P180

※3 「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(講談社学術新書 1986) P195-96

※4 「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(講談社学術新書 1986) P197

※5 「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(講談社学術新書 1986) P211

※6 「スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学」(講談社学術新書 1986) P111

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