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マンスリーフォーカス
No.76 November 2005

世界の通信企業の戦略提携図(2005年11月7日現在)

226. テレフォニカは全欧基盤にシフトする(概要)

 かつてヨーロッパの既存通信事業者にはお互いの母国には立ち入らないという黙契があったが競争の進展とともに不可侵条約は蝕まれ、遂にこの10月31日(月)スペインのテレフォニカ(TEF)が英国移動通信企業O2(オー・ツー)を現金177億ポンド($315億)で買収することを提案しO2がこれを受け入れたので、局面の転換がはっきりした。

スペイン企業による過去最大の外国企業買収

 テレフォニカとO2が組むと、その合計加入数は1億7,000万(2005.9.30現在)に達し中国移動(CHL)の2億3,488万に次ぐ世界第二の大通信企業グループになる。テレフォニカのO2買収提案はスペインと中南米に固定系・移動系通信事業を展開する既存業者として気楽に母国に座していられない競争環境に気づいた経営陣の決断である。

 1日おいて11月2日(水)にドイツテレコム(DT)のK.エリック財務担当がメディアの取材に対し「株主のためにならないのでDTはO2買収対抗提案はしない」と答え、K.リッケDT会長兼CEOは32,000名雇用削減を発表し「DT雇用数(世界全体244,000内ドイツ170,000)の削減は急速な技術革新と厳しい競争環境に伴う産業再編への対応として必要」と語った。2008年までの3年間に固定系子会社T-Comで20,000、情報通信子会社T-Systemsで5,500など組織再編成を進めながら中核事業を見直しチャンスの大きい分野に注力する。企業が成長するには営業利益と拡充資金が必要で拡充の裏には運用・資金・投資コストがある。企業経営は短期・長期の諸活動の波と資産・債務のバランスの取り方であり、リッケDT会長兼CEOは今は自重する時と判断した。

 TEFのO2買収は、フランステレコム(FT)がスペイン第3位の移動通信企業アウナ(Auna )(ブランド名アメナamena)株式の80%を85億ユーロで買収したので(2005年7月発表)、独立の移動通信企業として誰もが魅力を感じるO2の先占に踏み切ったと考えられる。O2買収は移動通信市場の競争を激化させるが、無線技術が従来の固定系経由の電話を代替えしブロードバンド・インターネット・アクセスに及ぶため、世界中を無線技術戦略で押して行けるVODはは別として、ほとんどの既存通信事業者はセルラーを含め衰退する事業を多様化で凌ぐ戦略しかない。

 TEFのO2買収は、2000年の通信バブル崩壊に伴い成長力鈍化が鮮明になった大手通信企業が3-4年後回復したものの峠を越し、投資銀行が採算に敏感になってきた中でのギリギリの戦略的決断であった。C.アリエルタTEF会長はVODの2005年3月通期売上高・税引き前利益の伸びが2%台に止まったのを見ながら「177億ポンド買収を決めたのは2週間前、米国ベルサウス(BLS)中南米子会社買収完了で統合効果の見積もりが当初の$10億から$15億に増えた時だった」と語った。TEF経営陣は売上高・費用と資産・負債バランスの僅かな変動に決断したのである。

 もともとテレフォニカは第一次世界大戦後の”黄金の20年代”に野心家ソスサニーズ・ベーンがニューヨークに設立した海外ベンチャー”国際電信電話(ITT)が米国資本でスペインの小電話会社3社を買収して始めた電話会社CTNEで、第二次大戦後国有化されたが、1997年に株式を公開し民営化した企業である。歴史的に顧客・従業員とも本国より中南米が多く、2004年末顧客1億4,500万のうち本国は27%で中南米73%、従業員173,000名のうちスペインは34%、62%がブラジル・アルゼンチン・チリ・ペルーで働いている。英国・ドイツ・アイルランドに強い移動通信企業O2の買収によりテレフォニカ・O2連合は欧州顧客数1億1,600万とボーダフォンの顧客数1億6,500万に次ぐNo.2になる。TEFはO2買収で全欧成長基盤にシフトする。

経営効率化が課題

 テレフォニカのO2買収提案はO2株価の10月28日(金)終値より22%高い設定の総額260億ユーロ($316億、175億ポンド)だったが、発表を聞いた格付会社がスタンダード・アンド・プアーはA-に一段切下げ、フィッチもAネガティブとし合意成立後はBBB+に下げる様子見に出てTEF株価が下がったため、市場価格の25%高となった。1990年代末の大型M&Aがバブル崩壊後巨額債務となり整理に苦労した記憶から証券取引所のトレーダーがTEFの債務をキャッシュで売り下げ相場のデリバティブを買った。現在のTEF純債務は280億ユーロだがO2買収で倍増する見込みから2006年の下げ相場での利得をねらい、それが今のTEF株価に反映したのである。

 機関投資家はTEF/O2連合に対し煮え切らない態度だった。最近(2005年10月)の平均株価に25%プレミアをつけるのは高過ぎるしコスト削減や売上げ向上の明白な相乗効果見込みに乏しいからである。しかしDTやFTなど大手通信企業グループが増資やリストラ負債の圧縮に成功し投資余力が増して互いの懐に手を入れる格好での新たな勢力争いが予想され、投資ファンドも動き出している。投資対象であり投資主体である大手西欧通信企業10社の「買収通貨」である株式時価総額を列挙すると次図の通りである。

西欧通信企業時価総額

 ボーダフォン・グループがダントツでTEF、DT、FTが買収側で、TIはトルコやチュニジアの中小移動通信事業に関心を持つものの債務オーバーの身の上である。買収対象としてはノルウェーのテレノール、ポルトガル・テレコ、フランスのブイグ・テレコムなども魅力的とされる。

 インフラ/ネットワーク/サービス/コンテンツ融合時代の西欧通信企業M&Aはタイプも複合企業型、専門店型と様々に、地域も西欧・北欧・東欧・中近東・北アフリカに広がって展開されよう。予想されるのは米国のベライズンのMCI買収やSBCのAT&T買収のように分野を越えて企業数、事業者数を減らす統合型よりも境界を残したままの緩い結合体の方向である。僅か5年前のM&Aが既存通信事業者の携帯電話部門やインターネット部門分離が主流だったのに対し今回は分離した資産を再統合するもので、前向きというより後ろに戻ることになる。利用者のシームレス=継ぎ目のないサービス要望に応える理由づけも、高額プレミアを払って買収した移動通信事業の収益が低下し新世代サービスがヒットしなければ過ちを犯すことになる。

 通信企業は極大化が生残り術とは限らない難しい時代に際会しており、TEF/O2連合はひたすら経営効率化に努め如何なる局面にも対応できる力を養わなければなるまい。

227.マイクロソフトは新しい変革に挑む(概要)

 マイクロソフト(MS)は創業以来三度目の変革に挑戦する。1975年パソコンソフト・ベンチャーとして創業後初の挑戦はバッチ処理からオンライン処理への転換で、IBM新PC用OSを開発した時であった。次の挑戦はウインドウズ95/98OS開発によりインターネットに対応した時でウェブ・コンンピューティング(WWWを基礎とした情報流通)の取組みに発展した。今回の挑戦は新しい競争者グーグル/ヤフー/スカイプなどに対応するオンライン事業戦略の確立である。

新しいウェブ戦略を呼びかけるB.ゲイツ会長メモ

 ゲイツMS会長兼チーフソフトウエアアーキテクトは経営幹部・上級技術者に電子メール(2005.10.30発信)を送って以下の通り呼びかけた。

 10年前メモ「押し寄せるインターネットの波」を送りインターネットがコンピュータの業界の勢力図をすっかり塗り替えていくことについて説明した。当時、我々の製品は来るべき大きな変化に備えられるか、それとも大波に押し流されてしまうかの岐路に立たされていた。我々は、迅速な技術革新を成し遂げるよう全力投球した。業界識者の見方は、ソフトウェアのブレークスルーを実現するため新アプローチをつくり出す我々の能力に疑問を投げかける向きが多かったが、それを見事に裏切り業界の先頭に立った。

  5年前我々は「.NET(ドットネット)」に焦点を合わせ、XMLとウェブサービスを重視するという大きな賭けにでた。我々は、これらの標準を推し進め、それを製品に組み込むという点で業界をリードする立場に立ったが、これも我が社の成功にとって重要な要因となっている。今日では、フォーチュン100企業の92%以上が.NETを利用しており、またXMLおよびウェブサービスを中核に据えた最近の製品群も、2000年に打ち出した大胆な戦略のおかげでシェアを伸ばしている。
 今日における成功の鍵は、インターネットを利用して、ソフトウェアをさらに強力にすることにある。このためには、新たな機能を提供しながら、IT部門や開発者の仕事を簡素化するようなサービスモデルをソフトウェアに組み込むことが必要になる。

  多くの点で、これはまったく新しい考え方というわけではない。我々は、1998年の株主総会の時点で、ソフトウェアがサービス化していくというビジョンをすでに示していた。我々は、その時以来、継続して投資を行っている--例えば、WindowsやOffice製品に組み込んだ「Watson」サービスによって、我々やパートナー企業は、ユーザーがどこで問題に直面したかを理解できるようになり、エクスペリエンス(快適な体験)を向上させることが可能になった。また、オンラインヘルプ機能によって、どのようなトピックがユーザーに役立っているのか、そして変更する必要のある点はどれかというフィードバックを得ることが可能になった。MessengerやHotmailといったMSN製品については、1年を通して何回も機能追加のアップデートを行うため、技術革新の成果を迅速にユーザーの手にもたらすことができる。さらに、Mappointサービスは、これに登録した企業がウェブベースのAPIに接続できるようにした点で他社に先駆けたものだ。
しかしながら、業界の先頭に立つためには、もっと多くのことをする必要がある。広範で豊富なインターネットの基盤のおかげで、アプリケーションやエクスペリエンスがインターネットを通じて数百万のユーザーに瞬時に行き渡るという「サービスの波」が押し寄せてくるだろう。広告はソフトウェアやサービスの開発費および流通費を直接的あるいは間接的に担う強力な手段として新たに登場してきた。数千万、数億という数のユーザーを視野に入れたサービスは、企業や規模の小さなビジネスにもたらされる解決策の質やコストを劇変させることになるはずだ。

 我々は、インターネットサービスを柱とした戦略を立て、また幅広いサービスAPIを提供し、それらをわれわれの主要アプリケーションすべてに利用していく。

 来たるべき「サービスの波」は、非常に破壊的なものとなるだろう。こういった機会をとらえ、我々に挑戦してくる競合他社は存在しているが、我々の方が優位に立てるチャンスがあるのは明らかだ。我々は、どの企業にもまして、ディジタル・ワークスタイルやディジタル・ライフスタイルの領域全体でエクスペリエンスとソリューションを実現するためのビジョン、資産、経験、意欲を備えており、またそれを大規模に実現し、すべての市場にいるユーザーや開発者、企業に届けることができる。しかし、このチャンスを活かすためには、我々がこれまでそうしてきたように、迅速かつ敢然と行動しなくてはならない。

ウインドウズOSからウェブ・コンピューティングに至る歴史

 IBMがSNAを導入してメインフレイムによるオンライン情報システムの覇権を目指した頃のパソコンは、インテル製マイクロプロセッサーを手作りソフトで動かすホビーの全盛期であった。MSは創業の翌年プログラミング言語BASICの改良版を披露し、1978年に情報システム応用ソフト用プログラミング言語COBOLの改良版を披露した。力量を認めたIBMは新パソコン用OS MS-DOS開発を依頼し、B.ゲイツとP.G.アレンはシアトル・コンピュータ・プロダクツ製シングルユーザ/シングルタスクOSを購入、モデルにしてMS-DOSを開発・納入した。IBMはゲイツ/アレン両名にDOSというOSのマーケティング権を認めた。MS-DOSはコマンドタイピング操作が親しみ難くメモリー限度640kの制約はあるものの1980年代を通じてパソコンOSの実質的標準となった。

 マイクロソフトはタイピング操作の不便を無くすためIBM互換PC向けMS-DOS用GUIを開発してウィンドウズと名付けた。MS-DOSとWindowsをセットに画面上にマウスを滑らせメニュー選択、ダイアログボックス操作を行う便利さで誰でもパソコンを容易に操れるようになり、PC普及の基盤となった。

 コンピュータ・ネットワークは長距離区間は専用線やVAN、短距離はLANやダイアルアップで接続されてきたが、ARPANET商用開放からコンピュータ・ネットワークの集合体「インターネット」が広がった。

 インターネット時代は、(1)科学研究者・大学院生の自由利用やITベンチャーが混淆する分野と(2)グローバル化する企業情報システムの分野が併行して展開した。(1)では CERNのティム・バーナーズ・リーがあらゆる情報に継ぎ目なしにアクセスできる広域情報システムWWWを提唱した。これはクライアントとサーバーの通信プロトコルにHTTPを用い、ブラウザで分散するオブジェクトやデータの全体像を一望し目的の情報を取り出すものである。CERNは1991年に研究所のウェブを開設し、1994年以来ウェブ技術の標準化とガイダンスを行うコンソーシアムW3Cが活動してきた。

 (2)企業情報システム分野では、初期のWWWシステムはテキストや画像をWWWブラウザ(クライアント)に表示する程度だったがWWWブラウザの多機能化によって複雑なクライアント/サーバー・アプリケーションを構築できるように進化した。
マイクロソフトはクライアント向けWindowsを2.0、3.0と進化させた後、サーバーやハイエンド・ユーザ向けWindow NT3.1を発売した。その上で企業・個人を問わず汎用のWindows 95を開発しWindows 98に発展させた。ビル・ゲイツ会長がメモ「押し寄せるインターネットの波」を書いたのはWindows 95販売の立上がり時で、ビジネス情報で全盛のテキスト中心ワープロソフトWordPerfectや表計算ソフトLotus 1-2-3に対抗して売り込むため全社的取組みを要請したのである。結果、競争には勝ったが、インターネット・エクスプローラー(IE)抱き合せ販売の独禁訴訟を背負うことにもなった。

 マイクロソフトは別途携帯情報端末/家電製品用OS を開発し、またサーバーやハイエンド・ユーザ向けWindows 2000を開発した。この間社内で仔細に検討した結果インターネットは単なるブラウジングを超え世界的規模のプログラミングを可能にするものと考えた。上記メモのなかでゲイツ会長が大きな賭けと述べた「.Net(ドット・ネット)」は最初の呼称「次世代ウィンドウズ・サービス(NGWS)を改めたネーミングで、マイクロソフトのパソコンOSがDOSからWindowsに替わって業界トップになったように新世代コンピューティング・プラットフォームとサービス/ネットワークOSとなるべき「.Net」であり、標準プログラミング言語XMLであった。しかし.NET戦略は業界を困惑させた。一体何なのか、うまく行くのか、Windowsの独占的地位を利用して「.Net」を推進する気かと様々に議論された。「.Net」ビジョンはオラクル(ORCL)やサン・マイクロシステムズ( SUNW)など競争者のビジョンと違っていた。ORCL/SUNWは全てのアプリケーション・ソフトがサーバー常駐でスマートフォンやゲーム端末のブラウザに出るのに対し、「.Net」では異なるウェブ・サービスの継ぎ目のない統合を保証するため全てのデバイスが縮小版パソコンに似て、当時独禁訴訟で連邦地裁のMS分割が示されたことでもあり、ゲイツ会長とMS幹部が「Windowsから.Netは自然な進化、プラットフォームはオープン・スタンダード、ユーザとソフトウエア・デベロッパーは確固たる基盤を望んでいる」と強調しても理解され難かった。連邦高裁上訴に対し地裁判事はMS分割命令の執行を停止してくれたものの、MSが戦略の具体化に手間取るうちヒューレット・パッカード(HP)がウェブ・サービス結合ソフトを発売し、肝心のデベロッパーが在来ソフトに執着するやら「.Net」戦略とXMLはポピュラーな開発環境になったものの、必ずしも所記の成功を収めなかった。

 2000年以降ブロードバンド/ワイヤレス・ネットワーキングの急速な普及に伴い情報通信技術革新が進みサービス・ベースの規模の経済が飛躍した。インフラ投資削減と検索エンジン改良により、インターネット上の諸サービスを利用するのに従来まずポータル・サイトにアクセスしそこからニュース、ショッピング、旅行などのホームページに移っていたものが、検索エンジンで直接必要なサービスを探してアクセスするように消費者行動が変わり、広告サポートの無料ウェブ・アクセスや無料の簡易メールなどを通じてインターネット・ビジネスの主役がポータルサイトから検索エンジン企業に移った。
企業情報システム分野でも第二世代ウェブ(Web2.0)と呼ばれるサービス群例えばウェブ・ワープロなど、自分のコンピュータに組込まれたソフトに様々な機能をネット経由で追加できる「サービス時代」が到来しつつある。既にセイルスフォース・ドット・コムなど小企業数社がウェブベース・ソフトを開発・出荷している。

新戦略に向けた組織再編成

 マイクロソフトは会社創立30周年を祝う社員集会をシアトルのセーフコ・フィールド(SAFECO FIELD)で開催した(2005.9.23)。ゲーツ会長は16,000名社員に「IT産業の成長と変革を今後もリードする」と挨拶したが、3日前に事業部門の再編成を発表したばかりだったので盛り上がりに欠けるところもあった。

 組織再編成は「マイクロソフト組織再編成図」に示す通り、従来の7部を3部門に統合し3名の社長が指揮するものだが、Microsoft Platform Products & Services部門はK.ジョンソンとJ.オールチンが共同社長に、Microsoft Business部門社長はJ.レイクス、Microsoft Entertainment & Devices部門社長はR.J.バックがそれぞれ任命され、次世代WindowsOS(ヴィスタ)と新ゲーム機Xboxなど懸案の完成する2006年末にJ.オールチンが退職すると発表された。

MS組織再編成図

 S.バルマーCEO(Microsoft Corp. CEO Steve Balmer)は「再編成の目的は意思決定を強化し、業務執行速度を速め、顧客が最も望む製品・サービスを提供することにある。三つの重要分野の成長と革新を推進できる実績のあるリーダー達を配置した。顧客のディジタル・ライフスタイルとディジタル・ワークスタイルの変化するニーズに対応して欲しい。30年間市場に低コスト・高容量の製品を出してきた伝統から我が社ほど個人と組織が求める最高のソフトウエア/サービスを生み出せるものはない」と述べた。Microsoft Platform Products & Services部門のWindows Client担当はW.プール執行副社長、Server and Tooles担当はE.ラダー執行副社長、MSN及びパーソナル・サービス担当はD.コール上級副社長、Microsoft Business SolutionsはD.バーガム上級副社長、Mobile & Embedded Devices担当はP.クノック上級副社長が任命された。また、レイ・オジー(Ray Ozzie)が最高技術責任者(CTOに任命され、Business Platform担当D.バスケビッチ上級副社長SVP とAdvanced Strategy & Policy担当上級副社長C.マンディがCTO兼務を命じられた。E.ラダー執行副社長がゲイツCSAを補佐する。
レイ・オジーCTOは先駆的ソフトウエア技術者で、バーチャルオフィス協働ソフトベンチャーの立上げ・成功歴をもって2005年春入社、以来Information Worker Businessを担当し社内点検を行ってきた。ゲイツCSAにメモを提出し(2005.10.28)、新しいソフトウエア/サービス ・ビジネスモデルの基本理念ー(1)広告サポート(無料提供)の力で駆動、(2)草の根的浸透で効果を発揮、(3)快適な生活体験を継ぎ目無く感じたい欲求に応えるーに沿った業務展開を命がけでと直言した。

228. ベトナム情報通信の競争的発展(概要)

 ベトナムは中国文化圏最南端の国で、南北分断・抗米戦争や民主カンプチア干渉・中国との確執に伴う国際的孤立と社会主義路線の国内行き詰まりの後「刷新(ドイモイ)路線」(1986年12月公表)と平和共存外交(中越正常化1991年11月、米越正常化・ASEAN加盟1995年7月)の採用により経済成長が始まった。1995-1996成長率は9%台に上り、アジア経済危機の影響で1999年成長率は4.8%に下がったが2000-2004年は6.7%-7.6%に回復し、2005年1-9月対前年同期比8.1%増を実現した。ベトナム社会主義共和国(Socialist Republic of Viet Nam)は国家主席・首相・共産党書記長の三頭政治が健在で、貧富の差拡大・汚職の蔓延、官僚主義の弊害等の問題はあるものの、抗米戦争から30年余経ち利益追求にいそしむ個人・企業と2006年夏WTO加盟を目指す政府の改革努力が続けられている。

情報通信政策・規制

 電気通信分野の改革では2002年郵便・電気通信政令第43号(2002.5.25)に基づき産業の近代化・国の管理の強化・組織と個人の権利・利益保護のため逓信省(DGPT)を郵便・情報通信省(MPT)に改組した。MPTは郵便・電気通信・IT・エレクトロニクス・インターネット・電波監理・無線周波数及び国家情報インフラの規制を任務とし、主として通信分野の全国にわたる協力と競争を促進し、並びに公益事業と市場支配力ある事業者を規制し、相互接続協定を調整する。MPTには2000年に設立されたベトナムインターネット情報センター( VNNiC)にインターネットのウェブ管理・ドメイン名割当て・情報管理・利用促進を行わせる任務も含む。MPTはベトナムにある5中央直轄市と地方政府59省の自主性を認め、既存ベトナム郵電公社(VNPT)を2分の上それぞれを地域別小子会社に分割し親企業が束ねる独立採算制によりコストダウンを図る再編成を2003-2005年に行うと発表した。
MPTは通信市場を国際標準に近づけるため2004年からサービス料金幅を撤廃してローカル事業者の自主料金に任せるよう自由化した。最近までベトナムの電話料金は世界最高レベルで外資より批判されていたが2000年以降数回値下げ努力を繰り返した結果国際電話料金は東南アジア平均に近づいた。MPTは電話交換網に着信する外国呼の清算料金単金を引下げた(2005年5月)。MPTはインタネット・サービス・プロバイダー(ISP)は無免許で無線LAN(WiFi)を提供できるとの指導文書を出した(2004年11月)。
無線通信事業に対する規制はMPTの無線周波数部門が無線周波数・衛星軌道・全国無線伝送について行う。市場シェア30%未満の事業者については料金表許可手続不要の方針である。無線市場に対する外資導入は、海外事業者がベトナム国有企業に投資し5-15年間利益を分与される業務協力契約(BCCs)に限る。MPTは電気通信市場に対する外資導入制限の全面撤廃措置を目下検討中である。

情報通信事業の現状

固定系事業

VNPT(ベトナム郵電)
 逓信省(DGPT)から切り出された国営郵便電気通信事業が公社化された(1995年11月)VNPT(ベトナム郵電公社)は、Viettelの参入(2003年)まで公衆電話交換サービス(PSTN)を独占していた。VNPTは国内電話事業( VTN)、国際電気通信事業( VTI)、公衆電話事業(GPC)、データ通信事業(VDC)その他合計25子会社から成るベトナム郵電グループ(VNPTG)を形成することとして首相の承認を得た(2005年3月)。VNPTGは政府100%所有の持株会社、VTNとVTIは親企業となり2005年末目標でスピンアウトする子会社を束ねる。
VNPTの2004年末電話加入数は500万、市場シェア99.1%である。公衆電話子会社(GPC)は現在ルーラルサービスの責任を負っており、今後59省で独立する地方小企業との協力・分担関係はこれからである。VDCは1997年以来ISP事業を行っており、2005年5月末契約数111万、全ベトナム48%でシェアNo.1だが最近は2004年6月末57%、2003年末65%と競争の進展に伴いシェアは下がってきている。VDCは2001年中半ばからシスコ・システムズ(CSCO)の協力を得て高速IP網実験の上コリアテレコム(KT)と提携して2003年にIP電話事業を始めた。2005年4月末ADSL加入数5万という。VDCは叉2003年11月ホットスポット20箇所でWiFiサービスを始めた。

Viettel(ヴィエテル)
 Viettel( ベトナム陸軍エレクトロニクス電気通信会社)は公共企業体として所管する国防省が国内/国際固定系サービス・IP電話サービス・インターネットアクセス・VSATサービス提供免許を受け開業した後、経営効率化のため組織形態を公企体から会社に改め所有会社となり(2005年6月)傘下に9事業会社を持つようになった。
固定系サービスはハノイ市/ホーチーミン(HCM)市で加入者無線網(WLL)によるIP電話サービスから始め(2000年10月)2003年に公衆電話交換網(PSTN)をサービス開始した。2004年末までに20市・省に展開し国鉄ルート沿い南北縦貫10Gbps光ファイバ伝送路を敷設した。国際通信サービスは5衛星地球局を設置して開始し(2003年11月)、光ファイバ伝送路を完成して2005年末までに中国側リンクと接続する予定。ISP免許を取得し(2002末)アクセスサービスを開始するとともに2004からIP容量レンタルを始めISP No.2のFPTに提供している。ADSLサービスも開始した(2005年4月)。移動通信も1998年にGSMサービス実験を行ったが免許取得が遅れ開業は2004年10月になった。

SPT(Saigon Potel:サイゴン・ポステル)
 SPT(サイゴン・ポステル)は国有企業10社による電気通信ベンチャーでVNPTも株式18%を保有している。HCM市の地域固定網事業から始め(2002年4月)ハノイ、ダナンなど拡大する計画で、子会社SnetFoneによるIP電話やサイゴン・インターネット・センター(Saigon Net)によるISP事業も始めたが拡大は遅れがちである。

VP Telecom(ベトナム電力テレコム)
VP Telecom(ベトナム電力テレコムEVN)は国有会社ベトナム電力の通信部門で2003年始め国内/国際固定系サービス・無線電話免許を取得した。国内固定系は2004年末までに5市・省で試行サービスを始めた後2005年に13市・省でCDMA2000 IX加入者無線網(WLL)を展開しビデオ・固定移動融合サービスまで含むマルチメディアサービスを計画している。

ISP事業

ISP事業のVNPT独占が廃止されたのは2002年で新規参入第一号はソフト開発企業FPT、続いてSPT、Viettelであった。2005年5月末全ベトナム契約数は280万で2年前の6.1倍、利用者数は750万で4倍と伸びている。契約数による市場シェアはVDC48%、FTP25%、Viettel10%、SPT(Saigon Postel)8%、その他9%である。
VNPTは全国展開しているがFTPはハノイ市とホーチーミン市だけサービスしている。

移動系事業

ベトナム初の移動通信事業者はHCMテレコムとシンガポール・テレコムの合弁コールリンクによるアナログAMPS(1992年サービス開始)だったが、加入者数千名止まりで10年後倒産した。ところがプリペイド・カードの導入や経済成長に伴いVNPTの2移動系子会社MobiFone、VinaFoneなど各社揃って伸び始め2005年5月末現在総計580万加入(人口100人当たり普及率7%)と固定系を超え、今ではMPTが2006年末普及率が8%、2007年末加入数1000万以上と見込むまでになった。

MobiFone(モビフォンVMS)
 MobiFoneはGSM900を提供するオペレーターで、1994年4月サービス開始以来全国64市・省に展開して急成長し、2001年以降はGSM900第二オペレーターVinaFoneに次ぐスピードで伸びてきた。2005年5月末現在7交換局・5000送信アンテナ・1300基地局・加入者容量355万を持つ。スウェーデンのコムヴィックと業務協力契約(BCC)を結び外資を導入してきたが、2005年5月に10年契約の期限が到来したので政府の民営化方針に従い2006年に株主資本化してVNPT55%、Comvik45%の合弁会社とする協議が進めれている。2005年5月末加入数は260万、市場シェア45%である。

VinaFone(ヴィナフォンGPC)
 VinaFoneはGSM900を提供するオペレーターで、1996年6月サービス開始以来全国64市・省に12交換局・1500基地局を展開する第二キャリアーとしてトップを切って成長してきたが接続不良の批判もあることから現在加入者容量を540万増やす設備投資を行っている。VinaFoneは2006年早期に公開上場(IPO)するよう準備中で、ベトナム投資家協会(VAFI)はVinaFoneは民営化条件完備と認めた。2005年5月末加入数は3020万、市場シェア52%である。

Viettel(ヴィエテル)
 GSM900サービスの開業が遅れたViettelは2005年3月までに40市・省でサービス開始し2005年5月末加入数は60万市場シェア10%となるまで売りまくり、2005年3月末 までに600局設置した基地局を年末までに1000局増設し全国2005年末140万加入とする大拡充計画を立てた。ところが携帯電話発信呼を中継する固定系電話網が容量不足になり特にViettelが2005年4月に販売促進のため通信料金を半額値下げしてから深刻な事態になった。国防相が首相に善処を願う文書を送り(2005.6.25付け)、MPT司会でVNPTとViettelが会談し(2005.6.29)、対策をめぐり実務者協議が繰り返されている。

S-Fone(Sフォン)
 S-Foneはベトナム側SPTと韓国側SK Telecom(53.8%)/LG Elewcrtronics(44%)/ドンガ・エレコム(2.2%)合弁のSLD Telecomが折半出資する越韓合弁ベンチャーで3株主(PT、SK TelecomとLG Elewcrtronics)間で15年業務協力契約(BCC)を結んで2001年に免許を取得し、SPTはセルラー事業の運営、韓国2社は資金・機器・保守・コンサルタントの分担で開業することとした。
800MHz帯CDMA2000IXサービスをハノイ市とホーチーミン市で開始し(2003年7月)、2003年末までに13都市に展開する目標を立てたが達成出来ず、MobiFone及びVinaFoneとの簡易メール(SMS)も延び延びとなり、割安料金にもかかわらず2005年5月末加入数295,000に止まっている。

Cityphone(iPas)
 Cityphoneは二本のPHSに似た米国US Starcomのパーソナル・アアクセス・システム(Personal Access System: PAS技術を用いる都市内移動電話で、ハノイ市(2002年12月)とホーチーミン市(2003年2月)でVNPT傘下子会社がサービス開始した。基地局数がハノイ市1,300、ホーチーミン市2,000と多いが他の数都市含め2005年5月末加入数は10万程度である。

<寄稿> 高橋 洋文(元関西大学教授)
編集室宛 nl@icr.co.jp
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