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249. マイクロソフト経営の転換(概要)ビル・ゲイツ(1955.10.28生れ)はハーバート大学生の友人ポール・アレン(1953.1.21生れ)と1975年にマイクロソフトを創立して30年、後二年で日常業務から退くと発表した。マイクロソフト会長職と筆頭株主の地位は続けるが、精力を世界最大の慈善事業団体ビル/メリンダ・ゲイツ財団(BMGF)による途上国健康・教育問題に振り向ける。 集団指導体制 ビル・ゲイツ引退後の責任体制は2005年9月発表の3部門組織によるもので、S.バルマーCEOの下(1)オペレーティング・システム(OS)はK.ジョンソン社長、(2)オフィス製品はJ.レイクス社長、(3)娯楽及びハードウエア事業はR.Jバック社長が指揮、2006年末発売新OSウインドウズ・ヴィスタ(Windows Vista)とX360ゲーム機関係はJ.オールチン共同社長が完了まで責任を負う。最高技術責任者(CTO)に任命されていたレイ・オジーはビル・ゲイツを継いでチーフ・ソフトウエア・アーキテクト(CSA)に、C.マンディは最高研究戦略責任者(CRSO)に今回それぞれ任命された。 30年前の共同創業者ポール・アレンはビル・ゲイツと同じシャトル生れ、レークサイド高校で二つ年下のコンピュータ狂ゲイツと親しくなり、高校のミニコンを専用の上ワシントン大学コンピュータ研究所に忍び込み、見つかりはしたが二人無償で学生にコンピュータの使い方を教えることとなった。高校卒業後アレンはワシントン州立大学に進み、パソコンの商用ソフトを書く夢に取りつかれて2年で中退し、1975年にゲイツを説得してマイクロソフトを設立した。1980年にBASICソフト販売を始めたマイクロソフトのためシアトル・コンピュータ・プロダクツ(SCP)からQDOSを$59,000で購入する交渉に先鞭をつけたのはアレンである。 パソコン時代の色が薄れインターネット時代の風が力を増すにつれマイクロソフトの経営は順調だが、既定のOSやオフィス製品を超えた新市場の攻め方になるとゲイツの後継者に委ねなければならないし、スティーブA.バルマーCEOがその頂点に立つ。 エコノミスト(Economist2006.6.24)「魔法使いオジー(Ozzie the wizard)」によれば、ビル・ゲイツの生涯で自分よりコンピュータ・ソフト能力が優れていると尊敬し後継者にしたい個人はアップル・コンピュータ創始者のS.ジョブス(1955.2.24生れ)だが、マイクロソフト覇権確立過程で犠牲にした上、アップル復帰後は音楽事業に打ち込んでいるので、次善の人としてレイ・オジーを選んだと思われる。 レイ・オジーはシカゴ近郊イリノイ州クック郡パークリッジ育ち、1979年イリノイ大学アバナ・シャンペーン校の工学部を卒業したが、大学のメーンフレームに接続する端末を通じて手作りで学友とE-mailやInstant messagingを楽しんだという。データ・ゼネラルでLAN開発に従事した後ソフトウエア・アーツに移って表計算ソフト「ビジカルク」開発を担当し、ロータス開発にスカウトされソフト開発に従事した時、レイ・オジーはまだWord Wide Webの無い時代に今日のWiKiWikiWebに近いネット上の「協働の場」を提供した。これが「ロータス・ノート」のアイデアで、伝え聞いたビル・ゲイツは他人のイノベーションに対する羨望と感嘆の情を抱いたようである。レイ・オジーは1984年独立してアイリス社を設立しアイデアを「分散網を通じた人間とコンピュータの協働」という次の段階に進めた。これが後に「同一レベル(P2P)」と呼ばれるサーバーを経由しないデータ交流・共有機能で、音楽の世界でのナプスター、IP電話サービスでのスカイプに活用される。アイリス社は1994年にロータス開発に買収され、1994年ロータス開発がIBMに買収され、B.ゲーツはレイ・オジーがIBM傘下に入ったので不安になった。IBMが発売した「Lotus1-2-3」は表計算ソフトの王者となり、その原アイデアの功績によりレイ・オジーは1995年にPCマガジン「時の人(Person of the Year)」に選ばれソフト業界のカリスマ的存在になった。 B.ゲーツはレイ・オジーに惹かれる理由として、自分がソフトのサエよりもビジネス戦略に優れ,それが名声としては今一なのに「レイはエンド・ユーザ経験について信じられない発想をする」と語る。もう一つはオジーの人柄が自分やS.ジョブスと反対の極にあることで、B.ゲーツがキイキイ声でいつも人を苛立たせんばかり、S.ジョブスがピラミッドを建設したラムゼスのような自信に満ちてるように見えるのに、レイ・オジーはいつも仏陀のような微笑みを浮かべ、きついことでも柔らかく深い声で述べ人を安心させるのである。 慈善事業のM&Aはモデル? マイクロソフト創立11年目に初代ウィンドウズを発売、翌1986年ナスダック市場に株式公開してパソコンOS業が軌道に乗った1994年にB.ゲーツはMS社員のメリンダ・フレンチと結婚した。競争法違反事件を和解に漕着けたら和解違反で提訴され独禁法違反判決が下りEC競争法違反事件も併行するなかで、B.ゲーツは個人資産の株価値上がりで世界一の富豪となった。ライバルに対する強引な営業手法から「悪も帝国」呼ばわりされたからか、共同創業者ポール・アレンが一足先に慈善事業団体を創立したのを見習ったのか、ゲーツ夫妻は2000年にMS株式を元手にビル/メリンダ・ゲイツ財団(BMGF)を設立して共同会長職に就きパソコン寄付やワクチン接種を中心とした慈善活動を始めた。以来OSデファクト・スタンダード確立と関連ソフトの囲い込みで社業を隆盛に導き、米フォーブス誌によれば2005年末個人資産$500億と世界の富豪No.1を続けながら、慈善事業のマネジメントにも熱中してきたのが、2年後篤志家専念と区切ったのである。 因みに2005年世界の富豪番付No.2は米国の投資会社バークシャー・ハザウェイを率いる著名な投資家ウォーレン・バフェットである。彼は農村地帯ネブラスカ州オマハを本拠に投資会社バークシャー・ハザウェイを創立、地方新聞・消費者製品・石油関係などに投資し、また企業統治と投資の常識についてガイドラインを示しつつ株式の徹底した長期保有戦略で財を築き1990年代から富豪番付の上位にいる。そのW.バフェットが2005年末個人資産$440億の85%$374億をBMGFに寄付した(2006.6.26発表)。 何れにせよ$300億強の寄付が移る結果BMGFは資産額は$600億を超え、連邦法の規定に従い財産の5%を財団の活動費に回すとすれば年$30億もの資金を活用できる。ユネスコ(UNESCO)の年間予算が$6億強にとどまるので、とてつもない民間援助機関が出現することになる。W.バフェットはBMGFの評議員になる。 W.バフェットとB.ゲーツは1991年に出会って以来の親友でありビジネス・パートナーで旅行したり定期的にオンライン・ブリッジしたり、気心が分っている間柄である。エコノミスト(Economist2006.7.1)記事「ビランスロピー(Billanthropy)」は「もし貴方が世界第二の富豪ならば、貴方が苦労して蓄えたカネの面倒をみてもらうベストの人は貴方より稼ぎの良い世界一の富豪の筈だ。W.バフェットがこの洞察に従った結果史上最大の慈善事業資本が誕生したのだ」とする。W.バフェットは慈善事業団体管理者は被援助者を品定めする権力を好む恐れがあると見て、家族の関係する財団よりも現に投資収益を上げながら財団も切り回すB.ゲーツの財団を優先した。B.ゲーツは子々孫々まで自分の名を伝えると信じた慈善事業団体が実際は創立者の死後硬化し本来の目標を見失いがちと見て、自分の生きてる間に先ず稼いだカネを慈善事業に投資した。虚栄を排し真に篤志家的な篤志家を求めるB.ゲーツは篤志家ベンチャーと言える。 外国人の目には、アメリカ資本主義は巨額の富と大きな不平等を生み出し冷酷に見える。 250. 通信機メーカー再編成第二弾(概要)大手通信機メーカー仏アルカテル(Alcatei SA: ALA)と米ルーセント・テクノロジーズ(Lucent Technologies Inc: LU)の合併(2006.4.2合意)に引き続き、芬蘭ノキア(Nokia Corp.: NOK)と独シーメンス(Siemens Aktien: SI)が通信インフラ機器事業を統合し新会社ノキア・シーメンス・ネットワークス(Nokia Siemens Networks:NSN)を折半出資で設立することになった(2006.6.19発表)。 ノキアの通信インフラ機器事業は携帯電話網向けに特化しており2005年12月通期の売上高は66億ユーロ($82.5億)とシーメンスの同事業2005年12月通期売上高92億ユーロ($115億)より少ないが、シーメンスは最近受注低迷し利益率も低く、再建方針もモバイル・携帯情報端末(PDA)・企業向け無線LANの選択未定などで遅れているため、新会社トップ はノキア側が出して本社をフィンランドに置き、S.ベレスフォード・ウィリー執行副社長兼ネットワーク本部長(Simon Beresford-Wylie, EVP and General Manager of Networks, Nokia)を新会社CEOにして主導権を握った。 2005年売上高ベースで通信インフラ機器市場シェアNo.1は、次図の通り、瑞典メーカーエリクソン(Telefon AB LM Ericsson: ERICY)で、ノキア・シーメンス・ネットワークス(Nokia Siemens Networks:NSN)は、アルカテル+ルーセント・テクノロジーズ(ALA/LU)の$250億弱(市場シェア19.6%)に次ぐ$200億弱(市場シェア18.4%)の世界第3位だが、2010年までに従業員数約6万名の15%をレイオフするコスト削減効果$20億を見込んでおり、ノーザンテレコム(Nortel)、モトローラ(Motorola)など下位メーカーにプレシャーをかけると思われる。 図:エリクソンを目指せ(Watch out, Ericsson) <出所>Economist(06.6.22)"Twisted pair" <注>*は合併手続未完了を示す。Ericssonには2006.1.1発効のMarconi社携帯電話部門買収分を含む。CiscoSystemsには別途サーバー事業16%がある。 ノキアのO.カラスボ新社長兼CEO(Olli-Pekka Kallasvo, President&CEOof Nokia Corp)は「世界市場で勝ち抜くためには規模の拡大と製品ラインを充実させることが必要。シーメンスとの統合はそのための効率的な手段になる」と語った(2006.6.19)。 251. 中国の意向に従う香港電気通信業界(概要)香港の中国返還(1997.7.1)から満9年、基本的には「一国二制度」は健在だが中国への経済依存度が強まり香港独自の競争力に翳りがみえ、経済の浮沈は中国次第の流れが定着してきた。香港政治家の希望は中国本土に踏みにじられることに慣れているが、地元通信企業PCCWの株式売却売却問題も中国政府や本土通信企業の意向に沿わないと解決しない。 リチャード李とPCCWの生い立ち リチャード李(本名リー・ツァー・カイLi Tzar Kai)は香港有数の長江財閥の当主李嘉誠(Li Ka Shing)の次男(39才)で、李一族が始めた衛星TV局STARを1993年にメディア王R.マードックのニューズ社( NWS)に$9.5億で売却し投資会社PCDを設立、払い下げで海岸通りを入手してIT用地サイバーポートを興した。次の挑戦は情報通信事業でシンガポール・テレコム( SGT)が折衝中のC&W 子会社香港電話(HKT)の獲得を狙い、PCDを李嘉誠を代表とするPCCW(Pacific Century CyberWorks Ltd)に改称のうえHKTと一体化する提案を行い同意を取り付けた。当時SGT折衝は初期の段階でC&Wは然るべくあしらいながらシンガポール政府の影響力に躊躇していたところにリチャード李が飛び込み、後ろ盾の李嘉誠を感じさせず若さ丸出しの企業家精神で押したのでPCCW株式+銀行融資$110億=合計$280億の合併商談が成功したようである(2000.8.17合併)。 1990年代のドット・コム企業でなくHKT買収で香港一の大企業に成り上がったPCCWは社名をPacific Century CyberWorks LtdからPCCW Ltdに改称し株式を公開した(2002.8.9上場登録名PCW)。ところが株価は不況と競争激化に伴う電話収入の低迷、ISPやブロードバンド投資のコスト負担で2000年ピーク時から2003年に96%下がり、2002年と2003年を通じて香港証券取引所で利回り最低の優良株となった。 PCCWは2002年7月に香港第2位の携帯電話会社CSLの持株40%を豪テルストラ(TLS)に売却して通信企業として固定系専業となったが、最近「トリプル・プレー」が香港にも登場し「クァトロ・プレー」など融合サービスの展望が脚光を浴びてきたため、香港最小の携帯電話会社サンデー・コミュニケーションズの株式60%を買収した。 ■PCCW株は中国流にあしらわれる この春広帯域サービス利用TV実験NowTVが始まって明るさは出てきたところで、リチャード李PCCW会長は株式売却の意思を明らかにした(2006.6.19)。PCCW資本構成は、李個人3%、李支配シンガポール上場PCRD23%、残り75%は中国網絡通信20%を含む一般株主で、PCRDは李100%所有パシフィック・センチュリー・グループ持株会社の75%所有なので、リチャード李個人の判断でPCCW株式は売却できる。 エコノミスト(Economist 2006.7.8)「干渉と言えば干渉」によればリチャード李の資産売却を止める法律上の障壁はない。香港には電気通信企業の外資制限は無く、事業者数が減り競争が鈍化する場合に売却差止め規制がかかるだけ。四大電気通信事業者の一つとして中央政府の直接指揮下にある中国網絡通信(China Netcom Group Corp)はPCCWの資産が外資の手に渡ることを望まないとの声明を出し、広報担当は「我々はPCCWに何の変化も望まない。香港人が所有し運営するPCCWの中核資産が変化して欲しくない」と述べた。地元有力企業や大立者がPCCW経営に参加して外資の影響力を中和する妥協策が待望された。 ところが地元金融界の調整役フランシス・リョウなる人物が登場して一変する。リチャード李は「PCRD保有PCCW株式23%を香港の投資銀行家に売却することで合意したと発表した(2006.7.10記者会見)。 ランシス・リョウは永らくシティー・グループ・アジアの財務担当を勤め、1990年代に中国本土企業の香港上場”レッド・チップ”創出に参加したベテランで、李嘉誠の贔屓筋でPCCW-HKT合併にも協力した。それだけに中国網絡通信、中国共産党政治局の意思が背後にあり、リチャード李も従ったと思われるが、もう一人背後にあるのは李嘉誠の意思であり、ハチソン・ワンポア(HWL)会長を承継した長男ヴィクター李のように落ち着きのある人物にしたいとの見方がある。 以上、本稿では中国網絡通信(China Netcom Group Corp)が頻繁に登場したが、次表の通り、世界の情報通信サービスプロバイダー番付では第31位である。 |
<寄稿> 高橋 洋文(元関西大学教授) 編集室宛 nl@icr.co.jp |
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