かっては世界に冠たる研究所として有名であったベル研のあり方が、また新たな論議を呼んでいる。
4月2日に発表されたところでは、ベル研の親会社である米国の電気通信機器メーカーのLucent Technologies(LT)がフランスのメーカーAlcatelと合併する合意が整ったが、ベル研が行っている米国国防総省等のための機密の研究開発成果が海外に流出するとの懸念が議会筋で出されはじめた。
LTとAlcatelの合併は表面は対等合併の形をとり、LTのCEOであるのPatricia F. Russoが新会社のChief Executiveとなる模様ではあるが、Alcatelの事業規模がLTの2倍ちかく大きく、新会社の本社はパリに置く予定であり、実態はAlcatelによるLTの買収だとみられている。
ベル研は1984年の「AT&T分割」以降、親会社が変わったり、分割されたりという数奇な運命を辿るなかで、かっての輝きは失ってしまった。米国では、ベル研に象徴される研究開発の衰退に対する懸念から、「AT&T分割」や「1996年電気通信法」の功罪について再検討もなされている。ベル研は今回さらに海外企業との合併で大きな影響をうけることとなる。その推移を整理してみよう。
■「世界のベル研」の凋落の軌跡
世界に冠たる往年のベル研究所
かってAT&Tを中心とした米国の巨大通信グループだった「ベル・システム」(Bell System)の傘下の「ベル研究所」(Bell Laboratories)は、1925年の創設であるが、世界中の超一流の大学の博士課程をトップで卒業した研究者だけを集め、最盛期には4万人近いスタッフで数箇所に研究施設をもち、潤沢な研究費のもとノーベル賞受賞のトップ研究者を次々と輩出し、トランジスタ、プッシュホン(Touch-Tone)、マイクロウェーブ、レーザー、光通信、携帯電話のセルラー方式、通信衛星、電子交換機(No.4ESS)などを次々に生み出し、研究の間口の広さ、深さの双方で文字通り世界に冠たる存在であった。
「ベル・システム」は、AT&Tが親会社で中核となり、その100%出資の電話運営子会社22社がほとんどの大都市の地域通信を押さえ、相互間を結ぶ長距離通信は親会社自身が当たっていた。通信サービスの提供だけに留まらず、通信機器の製造と設置工事はAT&T100%出資の子会社であるWestern Electric社があたり、そのテクノロジーはベル研がWEと協同して開発した。ベル研は、AT&TとWEが50%ずつ保有していた。
衰退の遠因は「AT&Tの分割」
つまり、ベル・システムは、研究開発・機器製造/据付・サービス提供までを一貫した強力な「垂直統合」のグループだったわけである。「ベル・システム」以外の「独立系(Independent)」電話会社のGTE等は、WEから機器を言い値で購入せざるをえず、こうした事情から司法省独禁局が「ベル・システム」からWEをスピンアウトするよう要請し独禁法訴訟となった。しかしAT&Tは研究開発・機器製造・事業運営の一貫体制に固執して応ぜず、結局、瓢箪から駒の唐突さで代案として電話運営子会社(ベル系地域電話会社)を切離すことで和解した。(1984年のAT&T分割)
22社の電話運営子会社は、それまでは、単にその株式の100%を親会社のAT&Tが持つだけでなく、例えばニューヨークテレフォンの社長がAT&Tの会長になるなど、AT&Tと密接な関係にあった。しかしこの「AT&T分割」で資本/人事関係を切断され、7社の地方持株会社に割り振られた。これらの「ベル系地域電話会社」は原則として長距離通信事業を禁じられ、AT&TやMCI、Sprint等の「長距離通信事業者」と二分峻別された。
かっての親子がライバルとして敵対へ
しかしその後、市内通信も長距離通信も一体的にサービスを提供する「ワンストップ・ショッピング」への顧客の要望が高まるなかで、ベル系地域電話会社側は市内網のライバルへの開放と引き換えに州単位で順次、長距離通信事業に進出が認められ、他方長距離通信事業者側もベル系地域電話会社等への高額なアクセス・チャージの支払いを免れるためもあり、また、1996年電気通信法が導入した「リセール」や「アンバンドリング」という市内通信競争参入の便法の追い風をも利用して、地域通信事業への参入が進んだ。このように次第にお互いが相手の縄張りに進出するようになり、両者は真正面から衝突する競争・敵対関係になっていく。
ベル系地域電話会社の協同研究開発機構Bellcoreの誕生と空中分解
ベル系地域電話会社はいまや親会社どころか、完全に敵となったAT&T傘下のベル研の成果を活用できなくなったため、1984年に7社協同の研究開発機関として協同出資でBellcore(Bell Communications Research)を設立した。研究員の一部はベル研から割譲をうけた。しかし、間もなくベル系地域電話会社が次第に長距離通信事業を認可され、兄弟会社の縄張りである市内通信サービスにも手を出すようになり、7社間の身内同士の競争が熾烈となるにつれて、研究費の分担ができず協同研究開発が成り立たなくなって、数年後に空中分解した。研究開発とは本来差別化で競争に勝つためであり、ライバルと協同で行えるものはごく限られたものとならざるをえない以上、当然のなりゆきであった。
AT&Tの第二次分割でベル研も二分割、衰退
1984年の分割後のAT&Tは、機器メーカーのWEとベル研は守り通したが、AT&Tの本業である長距離通信市場でライバルの長距離通信事業者であるMCIやSprintとの料金値下げ戦争で体力が落ちたうえに、インターネット通信のWorldComなどの新興バックボーン事業者の登場でトラヒックも落ち込んだため、財務面で苦境に追い込まれていった。
1995年にAT&Tは、やむなく自主的に再度分割を計画し、1996年に機器メーカー部門のWEを「ルーセント・テクノロジーズ」(Lucent Technologies)と改名して、資本関係のない別会社として切り出した。この背景には、前述のようにAT&Tとベル系地域電話会社が敵として正面衝突するなかで、ベル系地域電話会社がAT&Tの100%子会社のままのWEには機器の発注をしなくなった事情がある。かっての親子の仲はここまでこじれたのである。
この第二次分割で、ベル研も二分割され、基礎研究や事業運営関係など一部はAT&Tに残されたが7割がたはメーカーであるルーセント・テクノロジーズに”Bell Labs”の名称とともに引継がれることとなった。AT&Tに引継がれた部分は”AT&T Labs”と改名した。
IT不況が追い討ち
悪いことは続くもので、2000年近くなると折からのITバブルがはじけて、米国の通信業界も過剰設備容量の表面化やWorldComの不正経理問題で深刻な不況に追い込まれた。永年の料金戦争で疲弊していたAT&Tはどこかに買収されるのが確実視されるようになり、また、ルーセント・テクノロジーズも設備投資を絞り込んだ通信事業者からの発注が一時ゼロに近づき資金繰りが行詰り、もっとも将来性のある光ケーブル製造部門を日本の古河電工に売却して急場を凌ぐ有様となった。当然、二つに別れたベル研もそれぞれの持ち主の台所が火の車となり、十分な研究開発活動に支障が出た。
■米国での研究開発の弱体化への懸念と反省
以上のように米国のITの研究開発の牽引車であるベル研が衰退の一途を辿ったことについて、通信やITが21世紀以降今後の経済活動や雇用面で占める重要性からして、米国では将来について大きな懸念が出された。ことにベル研では国防面での研究開発も大きな柱となっているので、9.11以降、本土防衛の観点からも議会で度々論議されている。
米国の通信政策の潮流の激変
ことに1996年電気通信法制定から10年を経過する間に、米国政府の通信政策は、Clinton民主党政権からBush共和党政権に代わったこともあり、大幅に軌道修正されている。
すなわち、法制定当時の「競争参入事業者の助成」から最近の「既存地域事業者の高度通信への投資インセンティブ重視」への移行である。「とにかく市内通信市場での競争事業者の進出をはかる」ため、「リセール」や「アンバンドリング」(UNE)等の便法を用いて、ベル系地域電話会社等の既存地域事業者のネットワークを規制下の特別安価な事業者間料金で競争事業者に利用させる義務を強行した。その結果、既存地域事業者が折角多額の投資をして光ファイバ・ネットワーク等を建設しても、それを規制下の大幅割引事業者間料金でライバル事業者に利用させねばならず、既存地域事業者の設備投資インセンティブを削いでしまったのである。FCCのPowell前委員長自身「われわれは、たしかに市内通信での競争の実績を作るため、競争参入事業者側に肩入れしすぎてきた。」と議会で述懐している。
この一、二年の間にFCC(連邦通信委員会)は、光ファイバやパケット交換設備については、1996年電気通信法が既存地域事業者に強制している「アンバンドリング」(規制下の特別低廉な事業者間料金でライバル参入事業者に既存地域事業者の設備を利用させる方式)の義務を外している。
昨年末のベル系地域電話会社2社(VerizonおよびSBC)による長距離通信会社2社(MCIおよびAT&T)の買収のような超大型集約案件を、「競争が減退し消費者の電話料金が高騰する」という批判を乗り越えてFCCと独禁局が昨年10月末に認可したのも、明らかに軌道修正の一環である。1996年電気通信法制定当時は、7社のベル系地域電話会社同士の合併など論外で「着想すらできなかった」(Kenard元FCC委員長の述懐)のに、現在では4社に統合集約されており、さらに最近発足したばかりの新AT&T(元のSBCが長距離通信会社のAT&Tを吸収合併して社名はAT&Tとしたもの)は兄弟会社のBell Southをも買収しようとしている。
AlcatelによるLucent Technologies買収への反対論
米国下院のDuncan議員は大統領あてに書簡で、「AlcatelによるLucent Technologiesの買収に重大な懸念を抱いている。LTは政府のために相当量の機密作業を行っており、Alcatelが中国やイランとビジネスを行っている以上、こうした機密情報が彼らに流れる恐れがある。」と警告した。(ニューヨーク・タイムズ:2006/5/1)
LT傘下のベル研は、現在でも弾道弾ミサイルや潜水艦のソナーなど国防総省やCIA諜報部門からの研究開発特別プロジェクトを多数かかえており、その全体の売上高に占める比率もかなりなものであり、利益も大きいようである。(ニューヨーク・タイムズ:2006/4/3)
AlcatelとLTは、こうした議会筋での懸念に対応すべく、独立した子会社を設立し3名の米国人による役員会で管理するとしている。もっとも、LTの広報担当は、この子会社の売上高や従業員数等の情報については明らかにすることを拒否している。(ニューヨーク・タイムズ:2006/4/3)
3名の米国人として取り沙汰されている候補者は、前国防長官William Perry, former、前CIA長官 James Woolsey 、元 National Security Agency 長官 Kenneth Minihanである。(ウォールストリート・ジャーナル;2006/4/4)
■NTTの研究開発の見直しの論議
総務大臣の諮問機関である「通信・放送の在り方に関する懇談会」では、通信と放送の融合という新しい動きへの対応と称して、6月を目途に論議が進められている模様だが、「広帯域時代を迎えたユニバーサル・サービスのあり方」や「NTTの研究開発体制の外部へのスピンアウト」など、NTTの組織の根幹を見直す方向にあるようである。
研究開発については、とくに次のような意見が出されているという。
「(1) NTTの研究開発は、独占時代の名残であり、見直すべきだ。
(2) とくに基礎研究はNTTから外すべきである。
(3) 研究成果はNTT以外にも利用できるようオープンにすべきた。」
総務省の懇談会では、NTTの研究開発体制を解体して外部に移し、業界全体が成果を享有できるようにすべきだとの議論があるようであるが、高邁な理想としてならともかく、次のように実際の具体化では難しい問題ばかりであろう。
(1) 協同研究開発機関
まず考えられるのは、「事業者の協同研究開発機関」の創設であろう。事業者が協同出資して設立し、毎年度の研究費用も応分に拠出する。しかしこの案は、結局、米国で失敗したBellcore同様、利害の激しく対立するライバル事業者が協同研究できる対象は大幅に限定されよう。わが国での携帯電話での厳しい競争を見ても、他者との差別化で顧客に訴えられる製品やサービスの開発は、結局は個々の企業が競争でそれぞれの社内で行わねばならないのである。
(2) 総務省の通信総合研究所
次に考えられるのは、総務省の通信総合研究所等に移す案であろうが、厳しい財政事情から国庫に研究費用を潤沢に提供する余力があるはずもなく、結局は事業者に「お祭りの寄付」同様に割り当てが行われることであろう。また、実地の事業運営の知識もない専門家が研究開発プロジェクトの編成に容喙し、地に足の付かない研究開発計画が策定される恐れもあろう。
学習院大学経済学部の南部教授は、この点について、次のように単刀直入、明確に提起されている。(NTT労組「あけぼの」3月号での南部鶴彦 学習院大学教授の講演)
「研究開発部門の(NTTからの)分離は、国全体の研究開発力を落とすことが一番大きな問題であることに気付くべきだろう。とくに情報通信分野が、国際的な戦略産業であることや、極めて不確実性の高い分野であることを考えれば、研究所の分離が、わが国の経済や産業全体に、どのような影響をもたらすかは自明の理である。」
「結局、研究開発を支えるのは、企業に直接結びついた研究開発体制であり、かつ潤沢な研究費を投資できる巨大な企業という論理が成り立つわけで、やはりイノベーションの源泉は独占という考え方に帰結する。」
■米国など海外の潮流をも勘案し、百年の計を
NTT法の国会での成立過程では、両院ともに「NTTを民営化しても研究開発だけは低下しないよう配意せよ」との付帯決議がつけられた。国会の良識、先見の明が今更のように感じられる。
既に見てきたように、米国ではかっては考えられもしなかったような通信企業の超大型の合併がどんどん認められるようになってきている。その背景の一つには、重要中核産業である情報通信部門の研究開発能力の衰退を立て直したいという意欲がある。このことはSBCとAT&Tが合併した新AT&Tのプレス・レリーズにも謳われている。規模の経済をバックに財務基盤を強化し、十分な研究費を手厚く投ずる旨がコミットされている。
研究開発、とくに21世紀の戦略産業である情報通信部門での研究開発は、国際競争力そのもので、国益に直結する。情報通信政策、研究開発戦略は大所高所から慎重に策定されねばなない。それこそ国家百年の計である。米国のベル研等の失敗を繰り返すことだけは、絶対に避けねばならないのである。