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情報通信 ニュースの正鵠
2011年4月22日掲載

情報収集ツールとしてのインターネットとコミュニケーション・ツールとしてのインターネット

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 東日本大震災から1カ月あまり。情報通信の分野でもさまざまなことが話題にのぼりました。

 地震翌日の12日。まだ被害の全貌がはっきりしていなかった段階で、カーナビから得られるクルマの走行情報を活用して「実際に通ることができた道路」の地図をホンダが公開し、注目を集めました。原発の事故処理に手間取って、福島第一の廃炉が決定的になると、電力利用の効率化を図るためにスマートグリッドを推進すべきという意見が多く聞かれるようになりました。端末関連では、情報収集をする上でスマートフォンが便利だったとか、利用者の比較的少ないPHSがつながりやすかったと評判になりました。一方、Twitterなどのソーシャル・メディアは、安否確認で便利だったと評価を高めた半面、デマや不確かな情報の拡散に貢献してしまったことが批判されました。その他にも、通信インフラの停電対策の重要性が指摘されたり、災害時に役立つさまざまなアプリが紹介されたりしました。

 多くの話題がありましたが、個人的に印象に残ったのはもっと基本的なことでした。

 震災後、私はテレビのニュースをほとんど観ていません。情報ソースはインターネットが9割、その他(新聞、雑誌)が1割といった感じ。そのため、ACの「ポポポポーン」のCMも、テレビ画面で目にしたことはありません。

 テレビのニュースを観なかった理由の一つは年度末で仕事が忙しかったこと。3月中に仕上げなければならないレポートが複数あったので、テレビにかじりついている時間がありませんでした。もう一つの理由は衝撃映像を何度も観ることを避けたかったことです。

 大きな災害や事故が起きた時、テレビは放送可能な範囲内でもっともインパクトのある映像を選びがちです。とりわけ「被害の大きさを伝えること」が重要なニュースになり得る初期の段階では、そうした映像が繰り返される傾向が強いように思います。

 もちろん事実を知ることは重要ですが、大きな災害の時に、映像を通じて悲劇を何度も追体験して脳裏に刻み込むことは、ネガティブな影響の方が大きいような気がします。

 私の欲しかった情報は、「自分が何をすべきか」を考えるための判断材料と、「停電の予定」、「原発の事故処理の進捗」など、生活していく上で必要な情報。その他のものはすぐに知る必要のない情報でした。

 ニュースソースをネットに依存してしまうと、自分の知りたいことばかり調べるようになりがちで「情報の多様性が失われる」可能性があると指摘されることがあります。しかし、災害時のように知るべき情報が明確な時には、そのことが大きなメリットに変わります。

「都合の良い時に、自分の知りたいことを選んで情報収集できる」。あらためて指摘するのもはばかられるような、当たり前のインターネットの特性が、今回ほどありがたく感じられたことはありません。

 一方で、インターネット上のコミュニケーションの難しさを感じる場面もありました。

 巨大地震と巨大津波が発生したのが3月11日の金曜日。直後の土日は、ほとんどの人が被害の大きさに圧倒され、言葉を失っていたように思います。

しかし週が明ける頃から、様子が少し変わったようでした。

 被災された方や現地で救助や復旧に直接携わる方達は別として、それ以外の人々の中で少しずつ考え方に温度差が生じ始めました。具体的には、早く日常生活に戻ろうとする人と、そのことに違和感を覚える人とに分かれていったように感じました。

 アニメ番組を放送したテレビ東京に抗議が殺到したり、3月25日の開幕にこだわったプロ野球のセ・リーグに批判が集まったり、コンサートなど多くのイベント開催が「自粛」されたりしました。「電力消費」という視点での判断もありましたが、「自粛」の多くは、人々の感情に配慮した結果だったように思います。

 ネット上では、Twitterで「友人たちとは、『落ち着いたら、飲みに行こうね!』とメールしあってるけど...」とつぶやいたスポーツライターの乙武さんや、あえて「不謹慎ディナー」と公言して外食に出かけるジャーナリストの佐々木俊尚さんを、批判する人達が現れました。

 個人的には、著名人とはいえ、私人のプライベートな行動に対して、他人があれこれ注文を付けることの方が無作法なことに感じます。また、被災地の方々への「遠慮」から行動を「自粛」したり、ニヒリズムに浸っていても何も良いことはないのだし、復興のためには、各自が自分にできる貢献をしたうえで、早く日常に戻ることが重要になるというのもその通り。冷静に考えれば議論の余地はないように思います。

 一方で、オフラインの世界に置き換えてみると、「不謹慎だ」と指摘したくなる気持も理解できます。

 災害で行方不明になった家族の安否を心配している人が、すぐそばにいたとすれば、周りの人達は気を遣います。そのような時に、無邪気にはしゃぐ人が現れたら、たしなめたくなることでしょう。

 しかし、日本中(言葉の壁を無視すれば世界中)の人達が隣人になり得るネットの世界では、そのような気の遣い方は難しくなります。不可能と言ってもよいかもしれません。

 もう10年くらい前の話になりますが、私は衛星放送でBBCワールドニュースを観ることを日課にしようと考えたことがあります。しかし、数か月で断念しました。

悲しいニュースが多過ぎるからです。

 戦争、内戦、地域紛争、テロ、猟奇的事件に自然災害。対象を世界に拡げると、日々のトップニュースの多くは悲惨な出来事になってしまいます。

 それらの事実を知っておくことには意味があると思いますが、世界中の悲劇に逐一気持ちをシンクロさせていると、普通の人は精神的に参ってしまいます。日常生活を健全に送るためには、情報を対象化して客観的に捉えたり、ニュースをある程度シャットアウトして気持ちを切り替えることが必要になります。

今まではそれが可能でした。

 しかし、インターネットで世界中の人達が緊密につながり、互いの行動に干渉することが可能になると、それも難しくなっていくのかもしれません。あるいは、人々の価値観の方が変化していくことになるのでしょうか。


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