2020年7月1日掲載 風見鶏 “オールド”リサーチャーの耳目

相模国の前方後円墳-古墳巡りの楽しみ



私の趣味は中世の城跡探訪ですが、ここ数年はさらに時代が千年程遡って古墳巡りにもはまっています。これまでにこの風見鶏には、群馬の八幡塚古墳(保渡田古墳群)、大阪・堺市の大山古墳(仁徳天皇陵)、大和・纏向の箸墓古墳の探訪記を書いてきました。古墳巡りの楽しみの第一は何と言っても静けさです。訪問者はほとんどいませんし人が集まる観光施設は何もありませんので、新型コロナウイルス感染の心配はまったくありません。訪れた古墳を眺めて周囲を巡り、立ち入ることが出来れば墳丘に登り最も高くなっている後円部からの景色を味わうことが最上の喜びとなります。築造当時の風景や被葬者と作り上げた人々の生活や思いを想像すること、まだ文字のない時代の出来事を古墳の大きさと形状、出土物などから推定することなど数多くの楽しみがあります。日本全国には15万以上の古墳があると言われ(未発見・未確認のものも数多くあるのでもっと多い?)、城跡の約5万はもとより、各地にあるコンビニよりも圧倒的に多い数が存在します。私はその中でも日本特有の形式であり、国内各地に広がった前方後円墳に強く惹き付けられます。大和王権はもとより、それ以前の倭国・邪馬台国の時代から日本の各地に伝播した前方後円墳の形と墓制には生前の思いや死後の世界に通ずる何かを為政者(族長・首長)や人々は共有していたのでしょう。前方後円墳は倭国統合と大和王権成立の今に伝わる貴重な証拠物件であると考えています。

さて、今回は県外に行かずに私の住む地元神奈川県内にある前方後円墳について書いてみます。神奈川県は旧国名で言うと、川崎・横浜までは武蔵の国、残りが相模の国になりますので、ここで取り上げるのは相模国内にある3ヵ所の古墳です。倭国(大和)中央から遠く離れた相模地域ですが、縄文・弥生時代から相模川流域は早く開けていて数多くの集落跡が発掘されていますので、古墳時代になると前期から前方後円墳が見られます。今回取り上げるのは古墳の時期区分で言うと前期(3世紀中頃~4世紀後半)のものです。規模は小さいですが立派な前方後円墳です。

まず、海老名市にある秋葉山(あきばやま)古墳群です。現在、6基が確認されていて、墳長は大体50mほどで3世紀後半から4世紀中頃に造られています。相模川の東側にある丘陵の尾根部分にあって遠くに丹沢や富士・箱根を望む素晴しい眺望のところです。周辺は住宅地になっているので、残された保存林の印象です。

秋葉山古墳群の案内板

秋葉山古墳群の案内板

秋葉山で最古の3号墳(木々の中)

秋葉山で最古の3号墳(木々の中)

この秋葉山古墳群を築造したはずの人々の集落跡は発見されていないので、どの位の集団の長の古墳なのかは不明なままですが、3世紀後半築造となると最古の巨大前方後円墳とされる大和南部の箸墓古墳(墳長278m)とほぼ同じ頃なので、相模の有力者が既に倭国・邪馬台国と何らかの繋がりがあったことが窺えます。ただ墳丘には葺石はなく出土物からみても全国的規模で広がる定式化した前方後円墳とは異なり弥生墳丘墓(関東地方では方形周溝墓)の様相をみせています。まさに初期の前方後円墳の姿が相模国に出現したことが驚きです。

2番目は平塚市の真土大塚山(しんどおおつかやま)古墳です。この古墳は現在は既に消滅しているので形が前方後円、前方後方、双方中円と説が分かれています。ただ1960年までは存在していたので小規模な発掘調査が行われていて、大きさは墳長約43m、3世紀末~4世紀半ばの築造であると確認されています。この古墳の特徴は何と言っても出土品に三角縁神獣鏡があることです。この三角縁神獣鏡は京都の椿井大塚山、兵庫の権現山、岡山の備前車塚から出土したものと同范なので、倭国・邪馬台国との強い繋がりが認められると同時に、この兵庫・権現山、岡山・備前車塚とも墳長40数mと同規模の前方後方(後円ではない)墳なので初期古墳の形でも関係性があるように思われます。このように真土大塚山古墳は古墳時代初期の築造と想定され、かつ倭国中央や他地域との関係なども考えられる貴重な遺産だったのにも拘らず、1960年頃に近隣の工場用地の土盛り用土として採取され消滅してしまい今日見ることは出来なくなってしまいました。いくら高度成長期の工場用地整備のためとは言え、十分な発掘調査をしないまま、完全に更地にして消滅させてしまうとは本当に情けない限りです。当時の開発担当者、行政の文化財保護担当者、そして市当局の責任者の姿勢はどうだったのでしょうか。土地に刻み込まれた遺産を失うことほど大きな人類文化へのダメージはありません。何故なら出土物や文献・文物は場所を変えて保存が可能なのですが、大地に刻み込んだ遺産はその場所でしか保存し保護することが出来ないからです。ただ、この古墳の2分の1サイズの復元モデルが隣の真土大塚山公園に再現されているのが小さな慰めでした。

 

真土大塚山公園にある復元古墳(子供達の遊び場)

真土大塚山公園にある復元古墳(子供達の遊び場)

最後に逗子市と葉山町に跨る長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群を取り上げます。ここは発見が比較的新しく1999年3月中旬、現地で携帯電話の基地局建設のため小規模な森林の伐採が行われた際に、工事現場から地元の考古学愛好家が埴輪の破片を採集したことがきっかけでした。それまで、三浦半島の丘陵地帯に古墳があることはまったく知られていませんでしたので、急遽、逗子市・葉山町・神奈川県の教育委員会合同で調査が行われ、その結果、工事区域を含む一帯が前方後円墳らしいと判明しました。もちろん、その基地局の建設工事は中止となりました(よかったです)。この古墳が長柄桜山古墳群第1号墳であり、墳長90mの前方後円墳、4世紀後半に造られたものです。さらに同じ丘陵の西側500mのところからほぼ同規模の前方後円墳の第2号墳が見付かりました。2つの古墳(神奈川県最大規模)は逗子市と葉山町の境界の丘陵尾根上にあり、両方とも丘陵のピーク部分に築造されていて、そこからは逗子市街地や相模湾、さらに江の島や富士山まで望むことができ、また、築造当時に集落があった逗子湾沿岸から墳丘を見上げることができる場所になります。出土した埴輪・葺石などからみて古墳としての完成度が高く、被葬者は初期の大和王権との関係が深いと見られています。

1号墳後円部(保護が施されている)

1号墳後円部(保護が施されている)

2号墳から相模湾を望む(江の島)

2号墳から相模湾を望む(江の島)

長柄桜山古墳群の立地する場所は三浦半島を横切って相模湾と東京湾を繋ぐところで、相模から房総への交通の要衝なので古くから大和王権との関係が成立していたと見られます。逗子の川を遡り、低い峠を越えると横須賀市の“船越”に出て東京湾に直結し、その先の房総に続きますので、まさに倭建命(やまとたけるのみこと)の東征伝説の世界が広がります。つまり、この長柄桜山古墳群は初期の大和王権にとって、房総半島から北関東に行く重要ルート上の拠点を押さえる役割を持つ集団の首長の墳墓に相応しいものと言えます。逗子の海岸から丘陵の上まで約20分程の急坂ですが、尾根道はふれあいロードというハイキングコースなのでいろいろな楽しみ方が出来るところです。

以上、私の浅薄な古墳の知識を総動員しての相模国の前方後円墳巡りの紹介でした。最後に私が感じていることを2点述べて終わります。第1は、今回取り上げた前方後円墳3ヵ所は3世紀後半から4世紀後半まで(古墳時代前期)の約100年間の築造であり、ちょうど倭国の盟主・邪馬台国の時代から初期大和王権が成立する倭国統合化の時期にあたりますので、古墳の場所、形状、出土品など文字資料のない時代の遺物として大変に貴重なものです。卑弥呼と同時代の遺跡が文字どおり足元にあることを理解し未来に向けて大切に維持・保存する責任が私達にはあります。残念ながら現地の保存状態は必ずしも良くありません。要注意です。第2は、さまざまな開発のために既に破壊され消滅してしまった古墳が数多くあるということです。前述の平塚市の真土大塚山古墳の消滅という痛ましい事象はある意味、まだ小規模の学術調査後であり救われますが、本当に忌わしいのはまったく気が付かず、また無理解の下、調査などの確認なく破壊されてしまう古墳が数多くあったと想定できることです。まさに長柄桜山古墳群発見時の携帯電話基地局工事中止は幸いでした。一度失われた土地の形状は2度と戻りません。私のもうひとつの趣味である城跡探訪でも同じことですが、古墳は城跡よりさらに千年以上遡りますので土地開発に際してはより一層の注意が必要となります。

いずれにせよ相模の地に、邪馬台国の卑弥呼と繋がりのあった人達の墳墓があることを知り、その場所に立って当時のことに思いを馳せる楽しみは格別です。自粛が解けて次は再び神奈川県外の前方後円墳を目指したいと思っています。

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