2021.5.31 InfoCom T&S World Trend Report

ICT雑感:夏目漱石『こころ』をBL小説として読む

ネット社会の進展に伴い、SNSの場を悪用した匿名による誹謗中傷、フェイク情報の氾濫、特定の指向の情報のみを意識的にあるいは無意識に選別して取り込むことによる思考の偏りや陰謀論への傾倒など、その弊害がさまざまに論じられています。

このような弊害の一方で、世の中の多様な情報や考え方に自由にアクセスできるようになったという点では面白い社会になったと思います。かつては書籍を出版したり論文を発表したりできる立場の一部の人に限られていた意見の表明や情報発信について、広く一般の人がブログやSNSのような形でできるようになりました。当然それを行うに当たっては、他の人を傷つけたり誤った情報を流布したりする結果にならないよう気をつける必要がありますが、そうしたアマチュア的な人も含む幅広いものの見方に触れることで、例えば芸術の鑑賞や小説の読み方に新たな切り口が与えられ、世界が広がるということもあると思います。

最近私が体験したこととして、近代日本を代表する小説家である夏目漱石の、そのまた最も著名な作品である『こころ』についてお話します。高校の国語の教科書にもそのクライマックスの部分が載っていますし、多くの人が一度は読んだことがあるでしょう。

この『こころ』ですが、一般には、「先生」と後にその妻となるお嬢さん、そして友人の「K」の三角関係を軸に展開し、先生がKを裏切って出し抜けに結婚の話を決め、絶望したKが自殺する物語で、人間のエゴイズムの闇を描いている、という理解かと思います。

ところが、ある日ネットサーフィンをしている時に、この小説に関する解釈を掲載しているブログを見つけ、ちょっと読んでみたところ、これは実はBL(ボーイズ・ラブ)小説なのだという主張だったのです。思わず「へぇ~」となり、中高生の頃から腐女子をやっている長女に聞いてみたところ、「世界の常識!」と言われたので、これはもう一度最初から読んでみなければ……と思い読み直してみました。その結果……。

ハイ、BL小説でした。

あまりにも有名な小説であり、昔からいろんな方が多様な切り口での解釈を散々試みているようなので、これが正しい解釈だ! と決めつけるようなものではなく、さまざまな解釈、読み方ができるのがまた名作とされる所以でしょうけれど、少なくともBLとして捉えても違和感なく理解できるように感じられました。

ネット上の解釈論の助けも借りながら少しだけ紹介すると……。

「上・先生と私」は、「私」と「先生」の出会いと交友のストーリーですが、ここで「私」は先生に積極的にアプローチしていて、まるでストーカーのようです。先生は最初よそよそしい態度を取りつつも交友を受け入れますが、その過程は普通の男性の友人関係とは趣を異にします。「私」のアプローチは一目惚れといった感じですし、先生はそれに戸惑いつつも、かつての自分と「K」との関係を重ねて受け入れているように思われます。2人の出会いが鎌倉の海水浴場というのも、トーマス・マンの小説で映画にもなった「ヴェニスに死す」などを想起させます。

「下・先生と遺書」では、友人「K」からお嬢さんへの恋心を打ち明けられた「先生」が、機先を制して奥さん(お嬢さんの母親)にお嬢さんとの結婚の了解を取り付けますが、Kの恋の行く手を阻もうとしたのはなぜか……、お嬢さんや奥さんにはKへの関心はなく、ターゲットは先生であったように思われます。もともと養親と仲違いして生活に困ったKを、先生が無理やり同じ下宿に引き入れたのですが、先生が恋していたのはお嬢さん以上にKであったのでは? 先生はKの告白以前は積極的にお嬢さんにアプローチしているようには見えません。お嬢さんは何となく自分を好いているようだが、Kが傍にいる今の状態が心地良い――それがKの告白で崩れたとき、先生はKの道を塞ぎますが、その結果誰とのつながりも切れて究極の孤独に陥ったKは自死を選びます(決して失恋そのものが引き金ではない)。

高校の教科書だけでこの作品を知っている方は、ぜひ全編を通して読んでみてください。それだけで見方が変わると思います。そもそも、三角関係とエゴイズムが主題の話であるならば、「先生」と「私」の出会いや交友を長々と描く必要はないはずですから。

そういうわけで、BL小説としての『こころ』について少し書いてみました。私自身はコアなBL愛好者でも何でもありませんが、BLの見方を与えられてからは、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」もBL映画と理解するようになったし、取り立てて好きでもなかったオフコース「over」も、こよなく美しいBL音楽と認識するようになりました。

なお、女性どうしの愛を描く「百合」の世界でも、中島京子さんの小説で山田洋次監督により映画化された「小さいおうち」や、仲谷鳰(にお)さんの漫画でアニメにもなった「やがて君になる」(私を百合の世界に導いてくれた作品)など、魅力的な作品は多くありますね。腐女子の世界が次第に認知され、ダイバーシティの視点にも貢献しているといえるでしょう。あなたも、BLや百合の世界を少し覗いてみませんか。きっと世界が広がると思います。

  1. 今回この雑文を書き起こすに当たり、小説本文は「青空文庫」を当たりました。著作権の切れた作品を中心にボランティアによりテキスト化している電子図書館で、国内外の1万6千以上の作品が収録公開されています。 https://www.aozora.gr.jp/
  2. 『こころ』の解釈については、主に以下のサイトを閲覧、参考にしました。
    ・夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド https://soseki-kokoro.blog.jp/
    ・JapaNEO(byひもくみ) https://www.japaneo.co/
    ・笑いと文学的感性で起死回生を!@サイ象 https://rhinoos.xyz/
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