贅沢がもたらす効用〜目的を超えた余白の回復について
企業はしばしば「法人格」と呼ばれる。そこには「人」という文字が含まれているが、企業はあくまで人間が作った仕組みであり、ルールである。その存在目的は比較的明確で、基本的には利益を上げることにある。もっとも近年では、単なる利益追求だけでは社会的評価や制裁が企業価値に影響するため、ステークホルダーに価値を提供することによって利益を創出することが重要だと考えられている。SDGsやCSRといった概念も、その延長線上に位置づけられる。いずれにせよ、企業には利益という最終ゴールが設定されている。
かつてコンサルティングファームに所属する人々やMBAの学生の間では、企業活動の感覚を磨くためか、ビジネスに限らずあらゆる行動について「目的は何か」「理由は何か」と問い続ける習慣が推奨されていた。極端な話、今日の食事は何のためか、この服は何の目的で選んだのか、とまで考えるという話もあった。確かに企業経営は目的と手段が明確であり、その意味では非常に合理的である。しかし、その考え方を食事や衣服のような日常生活にまで適用することには、どこか違和感を覚えていた。本稿では、その違和感の正体を考えてみたい。
そもそも目的とは何だろうか。何かが必要であると言うとき、それは何かのために必要である。つまり「何かのために」という関係が成立した瞬間に、目的が生まれる。必要という概念は目的と切り離せないのである。では人間は、何かの目的のために必要な行動だけをとる存在なのだろうか。
極論すれば、生きるために必要なものは水、栄養、運動などである。これらは生命維持に不可欠な要素だと言える。では視点を変えて、贅沢は生きるために必要だろうか。贅沢とは一般に必要以上のもの、あるいは必要以上の行為だと定義される。そして必要以上のものを十分に享受したとき、人は満腹のような状態に至り、「もういらない」という感覚を得る。この感覚は満足や幸福に結びつく。満腹になると次を求めないという経験は、誰もが持っているだろう。
一方で、大量消費は贅沢なのだろうか。ある哲学者は、大量消費は贅沢ではなく、むしろ経済成長の駒として組み込まれている状態だと指摘する。例えば、壊れていないのに、機能も大きく変わらないのに、新しいスマートフォンを次々に買い替えてしまうことはないだろうか。カメラの画素数が少し上がった、薄く軽くなった、色が新しくなった——そんな差分に心が動き、発売日に行列に加わり手に入れる。だが数週間もすれば新鮮さは薄れ、「次はさらに良いものが出るはずだ」と期待してしまう。よく考えれば本当に必要なのか疑問に思いながらも、魅力的な宣伝文句やSNSの比較に引き寄せられ、消費の循環の中に入っていく。これは満腹の満足ではなく、欲望の先送りである。
衣服も同様だ。防寒や身だしなみという目的があるとしても、「今年はこの形が正解」「このブランドなら外さない」といった空気に押され、まだ着られる服には見向きもせず新作を買う。クローゼットは満ちても心は満ちない。そこには「もう十分だ」という終点が生まれにくい。新しいものを手に入れた瞬間に目的は達成されるが、すぐに次の“正解”が現れ、更新が促される。これは贅沢というより、大量消費と呼ぶべき現象だろう。
贅沢そのものは昔から存在していた。必要以上のものという意味では、むしろ普遍的な行為である。しかし産業革命以降、物があふれる社会になると、贅沢よりも大量消費が生活の中心になった。同じ効用でも、買い替えること自体に価値があるような生活スタイルが生まれ、かつて贅沢と呼ばれた行為の意味が薄れていったのではないかとも考えられる。効率化は、食事を「栄養の摂取」に、移動を「時間の短縮」に、娯楽を「刺激の摂取」に還元しやすい。サブスクリプションで映画や音楽が無限に供給されるほど、逆に「どれを選んでも足りない」という感覚が強まる、といった逆説も起こりうる。
資本の側から見れば、効率と利益が最優先される。「毎日必要な栄養さえ摂れば生きていけるのだから、それで十分ではないか」という論理も成立すると指摘する哲学者もいる。しかし本来、人は贅沢を通じて満足を得ることができるはずだ。例えば、手間をかけて出汁を取り、ゆっくり食卓を囲むとき、同じ栄養でも体験の厚みが違う。旅行も、名所を詰め込むより、あえて一つの町に滞在して散歩し、喫茶店でぼんやりする方が「もう十分だ」という充足に近づくことがある。贅沢は、量や速度ではなく、経験の質に宿るのかもしれない。
改めて贅沢を考えると、それは目的からはみ出たところに現れる行為だと言える。食事の目的が栄養摂取であることは確かだ。しかし食事と栄養摂取を同一視してよいのだろうか。栄養を補給するだけでも人は生きられるかもしれないが、食事を単なる生存手段に還元してしまうと、人間らしさは失われる。香り、季節、会話、器、作り手への想像——そうした“余剰”が食の歓びをつくる。衣や住も同じで、ただ雨風をしのぐ以上の「居心地」や「誇り」が、生活に彩りを添える。
一方で現代社会は、農業革命、工業革命、情報革命と続く効率化の歴史の上に成り立っている。この過程は生活を便利で安全なものにしたが、同時に多くのものを目的へと還元してきたとも言える。多くの人は一日の大半を企業の中で過ごし、その思考も利益追求という枠組みに染まる。会議ではKPI、家庭では家事の最適化、休日には体験の“回収”——そうして生活全体がプロジェクト管理のようになると、目的の外側にある贅沢へ向かう余白が削られていく。
贅沢とは、何かの目的のために行われるのではなく、それ自体が喜びをもたらす行為だという考え方がある。しかし「人間らしく生きるために贅沢をしなければならない」と目的化した瞬間、それはもはや贅沢ではなくなると、ある哲学者は指摘する。目的から外れた行為に慣れていない現代人には理解しにくいが、遊びはその典型だろう。子どもが意味もなく石を拾い、形を眺め、また捨てる。そこに成果はないのに、時間だけは豊かに流れている。
贅沢がもたらす「もういらない」という感覚は、欲望に境界線を引く力でもある。境界線が引ければ、比較や競争から一歩降りられる。逆に境界線が曖昧だと、評価軸は外部に委ねられ、他者の視線やランキングが欲望の境界線を際限なく押し広げてしまう。だから贅沢とは、満たされる能力を取り戻す試みだとも言える。例えば、スマートフォンの通知を切って夕方に散歩する、週末は買い物アプリを開かない、あえて同じ店で同じ料理を頼む。小さな選択の積み重ねが、満足の終点を体に思い出させる。そこから初めて、仕事の目的も生活の目的も相対化できる。言い換えれば、余白の回復である。
企業人として、目的の外側にも人間の幸福や満足が存在することを認識する必要がある。そのうえで、目的を重視する資本主義社会の中でも、人間らしい幸福を得られる生き方を模索することが求められる。仕事が楽しい、やりがいがあると感じるとき、それは目的を超えた満足が生まれている瞬間なのかもしれない。情総研は人形町にオフィスがあるのだが、人形町でおいしいランチをゆっくり味わえることもまた、目的からはみ出た小さな贅沢の一つだろう。
※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開したものです。
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