2023.6.29 ITトレンド全般 InfoCom T&S World Trend Report

労働・雇用分野における「デジタル後進国」からの脱却

解禁前の議論の盛り上がりや期待と比べて必ずしも順調な滑り出しとは言えないようだ。今年4月1日に解禁された、いわゆる「賃金のデジタル払い」(以下、「デジタル払い」)のことである。規制緩和と強化のはざまで重い負担に苦悩している資金移動業者も多い。筆者は本誌2023年3月号でデジタル払いの概要やこれまでの経緯などについて概括[1]したが、今回は解禁後の現況と今後のデジタル払いへの期待について述べてみたい。

デジタル払いはキャッシュレス決済やフィンテックを推進する政府の成長戦略の一環として2015年から議論がスタートし、2023年4月1日に解禁された。労働基準法施行規則の一部が改正されたことにより、これまで同法の例外規定で認められていた銀行口座と証券総合口座に加え、資金移動業者[2]口座への賃金の振込も認められることになった。ただし、すべての資金移動業者にデジタル払いが認められることになるわけではない。資金移動業者からの指定申請に基づき、一定の要件を満たす者を厚生労働大臣が指定することとされている。企業などにも制度設計、労使協定の締結などの様々な準備が必要になる。中でもとりわけ重要なのは、労働者に制度を周知し充分な理解を得ることだ。

報道などによると、今年4月1日以降、厚生労働省に指定申請したのはリクルート、楽天、KDDIといった資本力のある大手企業系の会社ばかりだ。これまでデジタル払いへの参入意向を表明していたスタートアップの多くは参入を見送っているようだ。資金面など様々なコスト負担が重い制度設計が参入障壁となっているとの声がある。例えば、資金移動業者は顧客から受領した額以上の金額を供託所(法務局)に供託することが資金決済法で求められている。これに加え、デジタル払いを行おうとする資金移動業者はデジタル払い口座の上限額(現在は100万円)に相当する保証金をさらに積む必要がある。口座の残高がたとえ1万円であっても100万円の保証金を積む必要があるのだ。また、万が一、資金移動業者が破綻した場合、6営業日以内に預入残高を弁済することも求められている。様々なデータの照合や本人確認、さらには最終的な入金確認などの膨大な事務作業を制度上求められる期間内に完結するためには、相応のコストをかけてシステムを整備する必要がある。これらが大手ほど体力がないスタートアップが参入を躊躇する要因となっているようだ。

事業者に重い負担となるこのような仕組みが取り入れられたのは、デジタル払いの解禁に向けた厚生労働省等における議論で資金保全、個人情報保護、データ管理、マネーロンダリング対策などに関してデジタル払いの安全性を疑問視する声が相次いだからだ。これらの声を受け、賃金が確実に支払われる仕組みや資金移動業者が破綻した場合に十分な額が早期に労働者に支払われる保証制度などが構築されることとなったのである。

現在、参入を表明している大手系企業は安全性の確保に必要なコストを当面は自ら負担するであろう。しかしながら、大手系といえどもこうしたコストを中長期的に負担し続けられるかどうかは未知数である。最悪のシナリオとして、スタートアップの参入もごく限定的になるばかりでなく大手系からコストが利用者に転嫁され、結果としてデジタル払いが遅々として普及しないことも想定される。厚生労働省による指定申請の審査には数カ月かかる見込みであり、今後のデジタル払いの進展を見通すのは時期尚早かもしれないが、こうした安全面に関する規制のあり方について事業者・利用者の目線も取り入れた議論と見直しがいかに進められていくかが今後の普及の鍵を握る。引き続き動向を注視していきたい。

また、デジタル払いは単に「口座間入金の手間が省ける便利なサービス」といった視点からではなく、より大きな枠組みから考える必要がある。具体的には、今後、雇用形態や働き方が一層多様化することに伴い、賃金についてもわが国で慣例化している「月1回払い」よりも短い周期で柔軟に支払える仕組みの整備を進める必要があり、デジタル払いをその具現化のための社会的な基盤として普及させていく必要があると考える。

わが国においては急速に進む少子高齢化と人口減少などの社会課題や、経済のグローバル化、生成AIをはじめとしたテクノロジーの急速な進化といった経済情勢の変化などを背景に、日本型の長期雇用システムや労働慣行は大きな変革を迫られている。2018年6月に成立したいわゆる「働き方改革関連法」に基づく様々な法令改正は、人事労務の現場のみならず企業経営そのものに大きな変革をもたらしている。これらに加え、新型コロナウイルス感染症の拡大が期せずしてわが国の労働市場や労働慣行に急速な変容をもたらしたことは周知のとおりである。

こうした流れの中で、近年増加しているのが副業・兼業、そしてフリーランスやシェアリングエコノミーにおける業務従事者である。副業・兼業はもともと少子高齢社会の到来に伴う労働力不足を補う新たな働き方といった観点から着目されていたが、副業・兼業を認める企業は限定的であった。しかしながら、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴うテレワークの普及や、厚生労働省がガイドライン・モデル就業規則を示したことなどをきっかけに「日本型雇用システム」にとらわれない柔軟な働き方として取り入れる企業も急速に増大した。副業・兼業を「認める」「認める予定」の企業の割合は、常用労働者数5,000人以上の企業では約84%という調査結果[3]もある。また、インターネット上のプラットフォームを活用して特定の使用者に雇用されず自営的活動を行うフリーランスやプラットフォーム就労と呼ばれる「雇用なのか自営なのかが曖昧な働き方」で就労する人も多い(フリーランスには明確な定義がないことから、その就労者数については調査により341万人~462万人と幅がある[4])。

今後、ChatGPTをはじめとした生成AIが一層進化し、あらゆる産業で当たり前のように使われる時代が到来すると、既存の概念にないより柔軟で新たな雇用や働き方も出現することになるであろう。そうした柔軟かつ多様な働き方の時代に「月1回の賃金支払い」というわが国の慣行はいかにも馴染まない。働き手のニーズに合わせ、より短い頻度で支払いができる仕組みの整備が不可欠だ。ちなみに、米国は雇用や労働市場、雇用慣行がわが国とは大きく異なるが、ペイロールカードが普及していることもあり賃金支払い頻度は「2週間毎」:42.2%、「毎週」:33.8%、「月2回」:18.6%、「毎月」:5.4%であり、「月1回」というのは極めて少数派である(2019年2月現在)[5]

令和4年の人口動態統計(概数)によると、合計特殊出生率は過去最低に並ぶ1.26となった。合計特殊出生率の低下が経済・社会に与える影響は大きい。人口減少で経済成長が長期間低迷すれば国債などのソブリン債の返済能力に疑問符がつき、格下げや金利上昇のリスクも想定される。また、年金などの社会保障制度の前提も変わってくるし、社会インフラすら維持できなくなるかもしれない。

もはや当面の人口減少は避けられないところまで来ており、わが国の経済・社会の未来はデジタルの力をいかに社会に取り込み活用するかにかかっている。今年6月に公表された「骨太の方針(「経済財政運営と改革の基本方針」)」においても、終身雇用を前提とした退職一時金の税制優遇を見直して転職を促進することや、ジョブ型雇用を浸透させデジタルなどの成長産業に人材をシフトすることなどを柱とした労働市場改革が盛り込まれた。労働・雇用の分野においても、コロナ禍で明らかになった「デジタル後進国」からの脱却は焦眉の急だ。

長年の議論を経てようやく解禁に漕ぎつけたデジタル払いである。大手ばかりでなく多様なスタートアップもデジタル払いに参入することにより、利用者にとって利便性の高い革新的なイノベーションが創出され、キャッシュレス決済の一層の普及や今後のデジタル社会における新たな雇用や働き方の創出につながることを期待したい。

[1] InfoCom T&S World Trend Report Mar.2023「スマホで給与受け取り~賃金のデジタル通貨払い解禁について考える~」https://www.icr.co.jp/newsletter/wtr407-20230227-muramatsu.html

[2] 資金決済に関する法律(平成21年法律第59号)に基づき、内閣総理大臣の登録を受けて、銀行その他の金融機関以外の者で為替取引を業として営む者。

[3] 一般社団法人日本経済団体連合会「副業・兼業に関するアンケート調査結果」(2022年10月11日)https://www.keidanren.or.jp/policy/2022/090.pdf

[4] 内閣官房日本経済再生総合事務局「フリーランス実態調査結果」(2020年5月)https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/suishinkaigo2018/koyou/report.pdf

[5] 厚生労働省 第168回労働政策審議会労働条件分科会(資料)「資金移動業者の口座への賃金支払について 課題の整理③」(2021年4月19日)https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/000770083.pdf

※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。

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