2023.10.30 InfoCom T&S World Trend Report

「2024年問題」を改めて考える

長時間労働はわが国における労働慣行の中でも是正すべき喫緊の課題の一つである。近年、働き方改革が進められてきたが、中でも2019年4月の改正労働基準法の施行は意義あるものの一つだ。この改正の最大のポイントは、それまで事実上「青天井」だった時間外労働に上限規制が設けられたことだ。しかしながら、工作物の建設の事業、自動車運転の業務、医業に従事する医師などについては、業務の特性や取引慣行に課題があるとして上限規制の適用が5年間猶予、また一部特例つきで適用されることとされていた。

これらの業種などに上限規制が適用される2024年4月がおよそ半年後に迫ってきた。これに伴い、人手不足に苦しんでいる運輸・物流・建設業などにおいて、これまでのようなサービスを提供できなくなることが「2024年問題」と呼ばれ関心が高まっている。今年10月に政府が物流DXやモーダルシフトなどを盛り込んだ「物流革新緊急パッケージ」をまとめたことが大きく報道されるなど、ビジネス分野で生じる様々な問題が注目を集めることが多い。一方で、これらの分野と比較し、報じられる機会は少ないものの、物流等と同様に私たちの生活に大きな影響を及ぼす重要な分野がある。それは医師の「2024年問題」である。

筆者は数年前、都内にある約590床の急性期病院に勤務し、医師をはじめとした医療従事者と共に安全で質の高い医療を地域に提供することに取り組んだ。また、医療従事者の働き方改革にも取り組み、その難しさも身をもって経験した。現在のわが国の医療は、医療従事者の強い使命感と高い倫理観に基づく自己犠牲的とも言える長時間労働によって成り立っていると言われている。コロナ禍における報道などで医療従事者の献身的な仕事ぶりや医療現場の厳しい現実を目の当たりにした人も多いだろう。

その典型が医師である。医療従事者の労働環境の実態は医療界の外からは見えづらいが、医療従事者、とりわけ医師の我慢・忍耐のうえに成り立つ現状は持続可能とは言えず是正すべきだ。本稿では医師の中でも多くを占める勤務医を念頭に、医師の「2024年問題」について考察する。何よりも大切な私たちの命と健康を支える医療の現状や今後のあり方について考えるきっかけとなれば幸いである。

冒頭で触れた2019年4月施行の改正労働基準法では「原則月45時間・年360時間、特別な事情があり労使が合意した場合に限り年720時間」という時間外労働の上限規制が導入された。この際、適用を猶予されていた前述の業種などのうち、建設の事業については2024年4月から一般労働者と同じ年720時間の上限が適用される。一方で自動車運転の業務と医業に従事する医師[1]については上限が年960時間となる。また、医師についてはその担う役割の特性に鑑み、A水準と呼ばれる年960時間の上限に加えさらに別の枠組みも設けられている。地域医療の確保や医師の技能習得との両立を図るためにB水準、連携B水準、C水準と呼ばれる別の上限が設定されているのである。これにより、医療機関において医師の労働時間短縮のための様々な取り組みを行っても時間外労働時間などが年960時間を超えてしまう場合は、所定の手続きを経たうえで上限を最大で年1860時間とすることができる。

なぜ医師には一般労働者の上限である年720時間を遥かに超える特別な枠組みが設定されているのであろうか?背景理解のため医師の労働時間に関するデータを紹介する。厚生労働省の調査[2]によると年960時間を超えて勤務している病院常勤勤務医の割合は37.8%、さらには上位10%の医師は年1824時間を超えて勤務している(図1)。また、年1860時間を超えると推定される医師がいる病院の割合は減少傾向にあるものの、大学病院で46%、救急機能を有する病院で49%という調査結果[3]もある(図2)。一般労働者と比べると医師は遥かに長時間労働を行っていることがわかる。

【図1】病院常勤勤務医の週労働時間の区分別割合

【図1】病院常勤勤務医の週労働時間の区分別割合
(出典:順天堂大学医学部公衆衛生学 谷川武「令和元年 医師の勤務実態調査(概要)」(厚生労働省HP))

 

【図2】地域医療確保暫定特例水準を超える働き方の医師がいる病院の割合

【図2】地域医療確保暫定特例水準を超える働き方の医師がいる病院の割合
(出典:厚生労働省医政局医事課 医師等働き方改革推進室「医師の働き方改革について」(令和3年度第1回医療政策研修会及び地域医療構想アドバイザー会議資料))

厚生労働省が示すいわゆる「過労死ライン」は、(脳、心臓疾患の発症前)1カ月間に概ね100時間、または発症前2カ月間ないし6カ月間にわたって概ね1カ月当たり80時間を超える時間外・休日労働が認められる場合とされている。医師の上限の年1860時間を単純に1か月に換算すると155時間だ。「過労死ライン」を遥かに超える水準の枠組みを設けざるを得ないほど医師が長時間労働を行っている現実は、労務的な観点のみならず医療安全の点からも是正が必要である。なお、こうした特別の上限を設定しても医師の健康が確保されるよう、医療法に基づき面接指導、勤務時間インターバル(始業からの一定時間以内に一定の継続した休息期間を確保する仕組み)、代償休息といった追加的健康確保措置を医療機関の管理者に求める仕組みが設けられている。

医師の長時間労働の原因として、医療の高度化・専門分化、入院期間の短縮化、宿当直、医療安全や個人情報保護への対応、各種書類作成、長時間の会議などが指摘されている。また、医師数、とりわけ医師の地域間・診療科間の偏在も医師の長時間労働につながっている大きな要因の一つである。

これらに加え、医師の長時間労働の原因の一つとして長年議論が続いてきたのが、昭和23年に制定された医師法第19条の応召義務である。同条第1項は「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。」と規定している。ここでいう「正当な事由」とは何かについて厚生省(当時)が通達で解釈を示してきたが、「医師の不在または病気等により、事実上不可能な場合」など、「正当な事由」を限定的に解釈してきた。こうした背景もあり、応召義務は医師個人の民刑事法上の責任や医療機関と医師の労働契約等に法的に直接的な影響を及ぼすものではないが、実態として個々の医師に「診療の求めがあれば診療拒否をしてはならない」という職業倫理や規範として作用し、医師の長時間労働につながってきたと指摘されてきた。

しかしながら、現代は個人の開業医が主たる医療の提供主体であった医師法制定当時とは医療提供体制や医療技術、国民や患者の医療に対する意識・価値観も大きく変化している。さらには、医師の過重労働が社会問題化する中で応召義務の法的性質等について整理する必要性も高まってきた。こうした背景から、2019年12月に厚生労働省から応召義務に関する新たな通達[4]が発出された。これにより患者を診療しないことが正当化される事例や個別事例が整理された。この通達が広く浸透することにより、今後、「医師や医療機関がいついかなる時でも診療の求めに応じなければならないものではないこと」が医療界のみならず広く社会的コンセンサスとなって、国民の理解と協力に基づく適切な受診行動や医師の長時間労働の是正につながることを期待したい。

近年の社会における様々な価値観の変化に伴い、働くことに関する医師の意識も変化している。特に、若い医師を中心にワークライフバランスを重視する働き方を希望する医師が増えている。こうした意識の変化には、2004年に始まった新初期臨床研修制度が大きく影響しているのではないだろうか。新初期臨床研修制度は医師が適切な指導体制の下で、医師としての人格を涵養し、プライマリケアを中心に幅広く必要な診療能力を効果的に習得することを目的として導入されたものである。

同制度の導入前、研修医は大学の医局に入り、外科など特定の診療科に所属して研修を受けていたが、新初期臨床研修制度では研修医が様々な診療科をローテートすることとなった。これにより、研修医が診療科毎の現場の実態を自分の目で確認したり実体験できるようになった。さらには、研修時間(午前9時~午後5時など)厳守の要請もあり、負担が少なくワークライフバランスを重視した勤務を希望する医師が若い世代を中心に増えたと言われている。その結果、外科や産科、救急など、肉体的・精神的負担が大きい診療科を志望する若い医師は減少した。

2024年4月から医師に時間外上限規制が適用されるということは、人手不足を医師の長時間労働で補うことで何とか成り立っているこれらの診療科において、医師が今までどおりの時間働けなくなることを意味する。すなわち、今まで受けられた手術が先延ばしされたり、あるいは脳卒中や心筋梗塞といった救急患者の受け入れが困難になったりするなど、命や健康に関わる重大な影響が私たちの日常生活に生じる可能性があることを広く一般社会も再認識する必要がある。

ならば、医師に時間外上限規制の適用などしないほうが良いのだろうか? 筆者はそうは考えない。むしろ、医師の働き方改革を躊躇している余裕はないと考える。経験豊富で柔軟な働き方にも対応できるベテラン医師がまだ現役で多数活躍している今のうちに改革を進めなければ、事態はさらに悪化するであろう。

筆者が勤務した病院では医師の労務管理は適切に実施されていたが、医療機関によっては必ずしも適切に実施できていないところもあるのが実態だ。医師の働き方改革を進めるためには、まずは現場において労務管理を適切に実施することが何よりも重要だ。可能であるならば社会保険労務士等の専門家のアドバイスやサポートを得ることが望ましい。そのうえで、病院管理者が負担が大きい前述の診療科等においてもワークライフバランスを重視した働き方ができることを医師に対して保障するなど、組織として長時間労働の是正に取り組むことが必要だ。

医師の長時間労働の是正などに向け、医療の現場では主治医制からチーム医療制への転換、医師から特定看護師・薬剤師等の他職種へのタスクシェア/シフト、医療クラークの活用など、より効率的に働くための様々な取り組みが進められている。また、手術映像、超音波画像、臓器の3D画像を人工知能(AI)が自動解析してリアルタイムで連動させる手術ナビゲーションシステムの導入など、最先端のデジタル技術の活用も進んでいる。

参考までに、弊社は情報通信分野に強みを持つシンクタンクとして、内閣府が進めている「戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)第2期プロジェクト『AIホスピタルによる高度診断・治療システム』」[5]に参画した。こうしたイノベーション創造に向けた取り組みの成果が医師の働き方改革の一助となることを期待している。また、今後はこれまでの取り組みの成果の社会実装にも参画していく予定であり、最先端のICT(情報通信技術)を活用したより高度で安全な医療の実現に貢献していきたい。

こうした現場の努力に加え、より抜本的な制度面からの改革も不可欠である。例えば、米国などで導入されている、看護を基盤としながら看護師が一定レベルの診断や治療などを行うナースプラクティショナー制の導入や、地域や診療科による病床・医師の偏在問題の是正、地域医療構想の具現化など、これまで議論されてきた課題の解決を加速させる必要がある。また、2024年度は診療報酬と介護報酬の同時改定が予定されている。厳しい財政事情に鑑みれば単純な診療報酬増は現実的ではないが、負担軽減が必要な診療科の医師増員や医師のモチベーション向上のための試みに報酬を支払う仕組みの創設などにより、診療科を志望する医師が増えるような取り組みを政策的に後押しすべきである。

2025年には「団塊の世代」全員が75歳以上になる。医療のみならず介護ニーズもさらに高まり、より多くの人が医療と介護を必要とする時代はもう目前まで来ている。また、2025年は地域における病床の機能分化と連携を進め、効率的な医療提供体制を実現することとしている地域医療構想の最終年でもある。こうした重要な時期を目前に医師への時間外労働の上限規制が適用される。当初は様々な問題は生じるであろうが、医師が健康で働き続けられる環境整備に社会全体で取り組むまたとない好機とすべきである。医療界のみならず、国民・患者も可能な範囲で適切な受診行動に協力していくなど社会全体で取り組むことにより、医療の質と安全の向上、持続可能な医療提供体制が構築されていくことを期待したい。

[1] 厳密には「医業に従事する医師」の中でも特定医師とそれ以外の医師では適用される上限時間が異なるが、
本稿では厳密な区分はせず「医師」と包括的に記載する。

[2] 順天堂大学医学部公衆衛生学 谷川武「令和元年 医師の勤務実態調査(概要)」(厚生労働省HP) https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000652880.pdf

[3] 厚生労働省医政局医事課 医師等働き方改革推進室「医師の働き方改革について」(令和3年度第1回医療政策研修会及び地域医療構想アドバイザー会議資料) https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000818136.pdf

[4] 厚生労働省「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」(医政発1225第4号 令和元年12月25日)https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000581246.pdf

[5] 内閣府政策統括官(科学技術・イノベーション担当)「SIP(第2期)研究開発計画の概要」(令和2年2月)https://www8.cao.go.jp/cstp/gaiyo/sip/kenkyugaiyou02.pdf

※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。

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