2020年11月1日掲載 風見鶏 “オールド”リサーチャーの耳目

相模地域の中世城跡探訪―深見城、早川城、大庭城

今春の新型コロナウイルス感染症の流行拡大以来、外出自粛やソーシャルディスタンスの確保などが叫ばれて自宅に引き籠ることが多くなってしまいました。オフィスに立寄る機会が減り、また、友人・知人と会話したり食事したりすることも無くなっています。人との接触が絶えることはシニア世代にとっては人生終盤の最大の楽しみを奪われたのも同然です。その上、外出しなくなると歩くこともなくなって体力維持や健康面の不安を抱えることになり、心身両面でダメージとなります。本当に困った事態です。コロナ禍が続くと数年後には高齢者の間で不健康状態が問題になる気がしてなりません。もちろん、若い人にも同様の事態は起こり得るので要注意です。

こうした中、私は健康維持のため歩くことを日課にして散歩に出るようにしてきました。真夏の猛暑の時期はさすがに外に出ることは控え気味でしたが出来るだけ歩くようにしています。ただ、自宅周辺の散歩ではすぐに訪れる所は尽きて退屈な単なる運動となってしまいましたので、私の長年の趣味である城跡探訪と古墳巡りを兼ねて、自宅から車で半日日帰りで行ける主に神奈川県内(県境を跨ぐ移動は慎重に!)の各地に出掛けて趣味と体力維持の実益を実践してきた半年間となりました。古墳巡りについては、この風見鶏の7月に「相模国の前方後円墳-古墳巡りの楽しみ」と題して掲載しましたので、今回は城跡探訪に触れてみたいと思います。お断りしておきますが城跡探訪も古墳巡りもほんの一部の場所を除いては、まったくと言ってよいほど人はいません。ソーシャルディスタンスどころか孤独で寂しさを感じるほどです。他人からは変人が林の中や丘の上を歩き回っていると見えているようです。たまたま人に出会うと不信の目で見られてしまいます。でも、その人気のなさが魅力であり、心の安定をもたらしてくれるのです。その上、入場料などは一切なし、費用は交通費(ガソリン代)だけですから安心です。

さて、今回取り上げるのは神奈川県の西側3分の2を占める相模の地域にある中世の城跡3箇所です。時代としては南北朝から戦国期に作られ使われてきたもので中央を貫ぬく相模川の東側に位置しています。それぞれの城館築造の端緒は鎌倉期御家人にあるようですが、歴史的には記録が十分になく伝承しかありません。城館として整備・強化されて歴史に登場するのは、動乱で合戦が頻発するようになってからです。この3城とも結局戦国期になって小田原の北条氏の手に落ちて、その役割を終えています。小田原北条氏の相模侵攻に際して小領主(国人衆)の抵抗はあったものの支配下に収まっていった時代です。

最初の深見城跡は大和市深見にあり、東名高速の横浜町田ICの南西1.5㎞の所、国道256号線を南東に少し入ったところにあります。今は大和市の城山史跡公園の一部となっています。北東を境川(この川は相模と武蔵の境)に面した崖の上に立地して中世城郭としては大きなものです。現地は台地側の続き部分に空堀(堀切)と土塁が築かれていて守りの固い作りとなっています。現在は木々が密集した林に埋もれていて、どこに何があるのか相当藪の中を歩き回らないと全体の姿は分かりませんが、その分だけ保存状態はよく昔のまま手付かずで残っています。

深見城の天竺坂―空堀と通路を兼ねる。

深見城の天竺坂―空堀と通路を兼ねる。

 

二番目は綾瀬市早川城山にある早川城跡です。この城跡は相模川の支流目久尻(めくじり)川の左岸の舌状台地の南端にあり、川岸に面して崖があって防禦に適した立地となっています。鎌倉武士渋谷氏の居城との伝承の残る中世の面影を色濃く残す城跡です。南と東西は崖なので守りには十分ですが、弱点となる台地に続く北側には堀切と空堀が作られて主郭を形成しています。現在、この城は早川城山公園として整備されて市民の憩いの場となっていますが、その結果、城跡探訪としての醍醐味が残念ながら少し欠けてしまいました。駐車場があって歩き易いのはよいのですが解説板がないと城跡だと気付かないかも知れません。

早川城の堀切と土塁―今は埋まって浅くなっている。

早川城の堀切と土塁―今は埋まって浅くなっている。

 

最後は藤沢市大庭にある大庭城跡です。この城郭は標高43mの大規模な平山城で、東側を引地川、西側を小糸川に挟まれた要害の地にあります。大庭には平安末期に大庭御厨(みくりや)と呼ばれる伊勢神宮の荘園があり、桓武平氏の流れである大庭氏が治めてきた由来があります。ただ、今に残る大庭城は室町時代の戦国初期に扇谷上杉氏の家宰であり江戸城を築城した城作りの名手太田道灌が当時の最新の技術を取り入れて作ったと言われています。しかし、大庭城はその後相模に侵攻してきた北条早雲によって落城してしまいます。東相模を押えた北条氏は大庭城を大改修して今に残る姿にしましたが、結局北条氏の滅亡とともに廃城となりました。城は東西は川に面した崖で主郭は守り易い台地の南端、台地続きの北側には堀切と土塁が幾重にも施されて主郭の北に曲輪が3つ連なって固い防禦をなしています。東側の引地川と西側の小糸川は大庭城のある台地の先で合流しており現在も水田が広がっていますが、昔は今より広い湿地帯でしたので川を堰き止めると城の周辺は水が溢れて攻めるには難渋の地となったようです。北条氏の城攻めの時、溢れる水を流すため堰の在り処を教えてくれた老婆を秘密を守るために殺害したという悲しい伝承(舟地蔵伝説)が残っています。現在は大庭城址公園となり広大な広場は市民が花見やピクニックを楽しむ場所となっています。

大庭城の構造―城山と川の位置が分かる。

大庭城の構造―城山と川の位置が分かる。

 

以上、相模の東側にある3つの城跡を紹介しました。この城跡に共通していることは、城郭は(1)川に面した崖上にあり反対の台地が続くところに空堀(堀切)と土塁を築いて守りを固めていること、(2)川そのものは大きくないものの川添いには深田や湿地帯があり攻め手の行動を制約する場所にあること、(3)相模特有の状況のもと地域領主の城として小田原の北条氏の侵攻に会い落城又は吸収された経過があることです。相模地域には鎌倉時代以来の御家人が多数いて小規模な城館を各所に設けて割拠していたために中世城跡が沢山残っています。ある所は昔のまま林の中に残され保全されていますが、多くは台地や丘の上にあるため宅地開発に伴って破壊され削平されてしまって説明板や石碑だけとなってしまっています。自治体によって整備・保護されて公園となっている城跡もありますが昔の姿を取り戻すのではなく、市民のための施設に姿を変えてしまっています。

ただ、私達の歴史を刻み込んだ土地柄なので、発掘調査など学術研究を尽してせめて往年の姿、それも時代毎の工夫した形をジオラマなり、3D映像なり、さらに構築物の復元などで分かり易く伝えられたらよいと思っています。土地の歴史には大きな意味があり、将来の糧になると信じています。コロナ禍の中、知的好奇心の満足と体力維持の実益とを兼ねた城跡探訪はさらに続きます。日本各地に城跡は5万以上あると言われているので対象が尽きることはありません。

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