2024.2.28 ITトレンド全般 InfoCom T&S World Trend Report

経済の好循環は実現するか?

今年1月24日に開催された経団連主催の労使フォーラムを皮切りに春闘が事実上始まり、本稿が読者諸氏の目に触れる頃には大企業の労使交渉も概ね山場を迎えているであろう。春闘は毎春行われているが、今年の春闘は例年以上に重要な意味を持つものとして特に注目されている。それは今春闘の結果が日本経済が長期にわたるデフレから脱却し、物価と賃金が揃って上昇する好循環につながるか否かの試金石となるからだ。最大の焦点は歴史的な物価高を上回る賃上げが実現するか、また、それが中小企業や非正規社員にまで波及するかどうかだ。

2023年春闘における賃上げ率は厚生労働省の調査[1]によると3.60%で、1994年以来の3%台となった。平均妥結額は前年比4,347円増の11,245円となり、1993年以来30年ぶりに1万円を超える高い水準となった。長年にわたるデフレの下で「物価や賃金は上がらない」という広く社会に浸透したノルム(社会通念)に転換の兆しが表れた春闘であったと言えるだろう。一方で、賃上げ率は高水準だったものの、エネルギーや原材料価格の上昇といったコストプッシュ型インフレにその後の賃金の伸びが追いついていない。物価の影響を考慮した昨年11月の1人当たりの実質賃金は28万8,741円で、前年比3.0%減少し20カ月連続のマイナスとなっている。

こうした状況の下で迎える今春闘の行方を例年以上に注視しているのが日銀である。周知のとおり、日銀は賃上げを伴う2%程度の物価安定目標の実現を目指している。賃上げの動向を見極めたうえでマイナス金利政策解除に踏み切るとみられているが、今年1月23日に開いた金融政策決定会合では大規模金融緩和政策の維持を決めた。マイナス金利解除のための条件がまだ十分揃っていないという判断だ。長短金利の誘導目標を操作し、債権の利回りと償還期間の相関を示すイールドカーブを適切な水準に維持するイールドカーブ・コントロール(YCC)や、上場投資信託(ETF)の買い入れなどの措置も現状維持とした。

日銀が注視する物価の動向に目を転じると、消費者物価指数(コアCPI)の前年比は昨年12月まで28カ月連続でプラスとなっており、21カ月連続で日銀が目標とする2%を超えている。日銀は先の金融政策決定会合後に「経済・物価情勢の展望(展望レポート[2])」を公表した。その中で2024年度の消費者物価指数(コアCPI)の前年度からの上昇率の見通しを2023年10月時点の2.8%から2.4%に下方修正した。2023年に一時90ドル台まで上昇した原油先物価格が直近では70ドル台で推移していることが大きな要因と考えられている。一方で、同指数の2025年度の上昇率見通しは2023年10月時点の1.7%から1.8%に上方修正した。消費者物価の基調的上昇率は、予想物価上昇率や賃金上昇率も高まるもとで、物価安定の目標に向けて徐々に高まっていくともしている。

これに加え、同会合における「主な意見[3]」を見ると、「賃金と物価の好循環実現の確度は更に着実に高まった」や「マイナス金利解除を含めた政策修正の要件は満たされつつあると考えられる」、「本年の賃金上昇率は昨年を上回る蓋然性が高い。不確実性はあるものの、『物価安定の目標』の実現が見通せる状況になってきた」など、日銀が賃金と物価上昇の好循環の実現に自信を深め、マイナス金利政策解除の判断時期がいよいよ近づいていることを色濃く窺わせる内容となっている。この自信を確かなものにできるか否かの大きな判断材料となるのが今春闘の賃上げ状況だ。

このように極めて重要な意味を持つ今春闘であるが、経団連は2023年の大手企業の賃上げ水準(3.9%)を念頭に置いたうえで、「昨年以上の熱量と決意をもって物価上昇に負けない賃金引上げを目指すことが経団連、企業の社会的責務と考えている」(十倉会長)として臨んでいる。一方、連合は「賃金も物価も安定的に上昇する経済社会へとステージ転換を図る正念場であり、その最大のカギは持続的な賃上げを実現することにある」(芳野会長)として、ベースアップ相当分で3%以上、年齢や勤続年数などに応じた定期昇給分を含めて5%以上と昨年(5%程度)よりも踏み込んだ水準の賃上げを要求している。

ベアの考え方などを巡り労使に隔たりはあるものの、労使ともに揃って賃上げに前向きなスタンスで臨む今春闘の焦点の一つは、昨年からの賃上げの勢いが維持できるかどうかである。日本経済研究センターが今年1月15日にまとめた調査[4]によると、賃上げ率に関する民間エコノミストの予測値の総平均は3.85%、高位8機関平均が4.16%、低位8機関平均が3.49%となっている。政労使が揃って賃上げに強いメッセージを繰り返し出していることや、新型コロナウイルス禍後の人流の回復と値上げの浸透などにより内需企業を中心に好決算が相次いでいること、足元の労働力需給の逼迫度などを勘案すると今春闘における賃上げ率は昨年を上回る高い水準となる可能性が高いだろう。

春闘の結果を踏まえ、日銀がいつマイナス金利の解除に踏み切るかにも注目が集まっている。QUICKが発表した今年1月の月次調査[5]によると、日銀がマイナス金利政策を解除する時期として「2024年3月」を予想している市場関係者の割合は17%(前月調査では8%)、「2024年4月」が73%(同61%)となっており、圧倒的に4月を予想する市場関係者が多い。

次回の金融政策決定会合は3月18、19日だ。中小企業の賃上げ動向がはっきり見えている段階ではないが、大企業の動向は見えている時期である。仮に2023年の賃上げ率を上回る結果となればこのタイミングでの解除の判断を後押しする可能性がある。さらに次の会合は4月25日、26日だ。中小企業の賃上げ動向に加え、「全国企業短期経済観測調査(短観)」の結果や支店長会議の報告内容、さらには展望レポートに2026年度までの向こう3年間の物価上昇見通しも盛り込まれる予定であることなど3月よりも判断材料は増える。これらを総合的に勘案すると、4月にマイナス金利の解除やYCCの正式な撤廃などに踏み切る可能性が高いのではないだろうか。マイナス金利政策が解除されれば、日銀としては2007年2月以来17年ぶりの利上げとなり、わが国の金融政策は大きな転換点を迎えることになる。

国内の物価動向だけでなく、日銀は海外の中央銀行、特に米連邦準備制度理事会(FRB)の動向も注視している。FRBは約40年ぶりとなる記録的インフレに対応するために2022年から金利を急ピッチで引き上げてきた。これまでのところ金融政策を効果的に調整し、景気後退を回避しながら米経済を軟着陸させることに成功しつつある。FRBは利上げ局面の終わりを宣言しており、利下げ時期の見極めに入っているとみられているが、今年1月31日まで開催された米連邦公開市場委員会(FOMC)では政策金利を5.25~5.5%に据え置いた。金利の維持は4会合連続だ。

FRBはインフレの再開を警戒した慎重な姿勢を崩していない。パウエル議長は、利下げ開始は「インフレ率の2%目標への収束に、より確かな自信を得ること」が条件と述べたうえで、「3月までに確信できるレベルに達する可能性は低い」として3月の利下げや2022年6月に開始した量的引き締め(QT)の緩和などに慎重な姿勢を示している。これに加え、2月2日に米労働省が発表した1月の雇用統計で就業者数が市場予想の18万人に対して35.3万人の増となったことを受け、3月に開く次回のFOMCで利下げするとの観測はほぼ消滅しつつある。こうしたFRBなどの動向も注視しつつ日銀がいつマイナス金利を解除するのか、また、政策金利の設定や国債市場・外国為替市場で投機的動きを誘発したYCCをどうするのなど、日銀が金融政策の転換と正常化をどう進めていくのか注視していく必要があろう。

今春闘のもう一つの焦点は雇用の7割を占めると言われる中小企業にも賃上げが波及するか否かである。現時点では多くの中小企業が一斉に賃上げできる状況にはないとみるのが現実的であろう。東京商工リサーチの調査[6]によると、2023年の全国の負債額1千万円以上の企業倒産件数は8,690件と前年比約35%も増加しており、増加率は31年ぶりの高水準だ。これは新型コロナウイルス対策として行われた実質無利子・無担保のいわゆる「ゼロゼロ融資」の返済が本格化したことが大きく影響している。2024年はこの返済がピークを迎えると予想され、企業倒産件数も1万件を超える可能性が指摘されている。こうした状況において、中小企業には業績が好調で賃上げができる企業もあれば、いわゆる「防衛的賃上げ」と呼ばれる労働力確保のためのやむを得ない賃上げをしている企業、そして賃上げしたくてもできない企業があるなど経営状況は様々である。広く中小企業全体に賃上げが波及するのはまだ先とみておくのが妥当だろう。

こうした厳しい状況に加え、中小企業の賃上げの大きな障壁として指摘されているのが、取引先、中でも大企業との垂直的取引関係の下で労務費、原材料費、エネルギーコストなどの上昇分を製品等の価格に適切に転嫁することが難しいことだ。とりわけ労務費は企業にとって極めて戦略性の高い機微な情報であり、その開示について慎重な対応が必要であることや、製品やサービスへの配賦根拠などを客観的、合理的に説明することが難しいことなどから、価格転嫁について取引先の理解を得ることに苦慮している中小企業が多いのが実態であろう。

適切な価格転嫁については長年議論されてきたテーマであるが、賃上げを伴う景気の好循環でデフレからの完全脱却を目指す岸田政権の下で、これを促進する取り組みが近年一層強化されている。その一例として公正取引委員会の動向を紹介しておきたい。公正取引委員会は2022年2月、原材料費等のコスト上昇分を取引価格に反映せず、取引価格を従来どおりに据え置くことは独占禁止法上の優越的地位の濫用の要件の一つに該当するおそれがあるとして、以下の2つの行為がこれに該当することを明確化した[7]

  1. 労務費、原材料価格、エネルギーコスト等のコストの上昇分の取引価格への反映の必要性について、価格の交渉の場において明示的に協議することなく、従来どおりに取引価格を据え置くこと
  2. 労務費、原材料価格、エネルギーコスト等のコストが上昇したため、取引の相手方が取引価格の引上げを求めたにもかかわらず、価格転嫁をしない理由を書面、電子メール等で取引の相手方に回答することなく、従来どおりに取引価格を据え置くこと

これを踏まえ、独占禁止法上の「優越的地位の濫用」に関する緊急調査を実施し、価格交渉の場で価格転嫁の必要性について協議しなかったなどとして、同年12月に13の企業・団体名を公表するとともに4,030社に対して具体的な懸念事項を明示した注意喚起文書を送付した[8]

さらには、2023年にかけても特別調査を実施し、前年に名前を公表した企業等の価格転嫁の進展状況等について同年12月に結果[9]を公表した。この中で「一定程度価格転嫁の円滑化の取り組みが進んでいる」としながらも、労務費の転嫁が進んでいないことを指摘している。同委員会は内閣官房と連名で、労務費の適切な転嫁について発注者・受注者がそれぞれ採るべき行動や求められる行動を12の行動指針として取りまとめ公表している[10]。この中で、発注者の行動として、例えば労務費の上昇分について取引価格への転嫁を受け入れる取組方針を具体的に経営トップまで上げて決定し、書面等の形に残る方法で社内外に示すことや、受注者から労務費の上昇分に係る取引価格の引き上げを求められていなくても、労務費の転嫁について発注者から協議の場を設けることなど、従来にない踏み込んだ行動を求めている。発注者がこれらに沿わないような行為をすることにより、公正な競争を阻害するおそれがある場合には、独占禁止法・下請代金法に基づき厳正に対処していくとしている。従来よりも踏み込んだ行動を求めるものであるが、こうした取り組みを通じてこれまでの適切な価格転嫁を妨げる商慣習が改められ、中小企業も含めたサプライチェーン全体で適切な価格転嫁が行われ、持続的な賃上げが実現されていくことを期待したい。

日本経済はグローバル化への対応の遅れに加え、産業の空洞化、競争力の低下、低価格と低賃金といったデフレ経済の下で賃金が上昇しにくい状況が長期間続いてきた。しかし、物価高先行ではあるものの、物価高に対応するための一時的な賃上げではなく持続的・構造的な賃上げを社会全体で実現する絶好のチャンスが到来している。デフレから脱却し日本経済を再び成長軌道に乗せ、新しいステージに移行させるチャンスでもある。

今春闘においては賃上げの勢いが継続されるか否かがポイントになるが、賃上げは一過性のものではなく来年以降も、また企業の規模や業種を問わず継続的に広く行われることが重要だ。そのためには、何よりも企業が賃上げの原資を自ら稼ぐ力を高めることが必要だ。政府、経済団体、労働者団体には来年以降も賃上げの機運を高め続けるとともに、社会全体で継続的な賃上げを実現できるよう、必要な政策や支援策などを強力に推し進めて欲しい。一定の時間を要することになるであろうが、「賃金も物価も上がって当たり前」という新たなノルム(社会通念)が広く社会に浸透すれば、デフレから脱却し賃金と物価が揃って持続的に上昇する好循環の経済構造へと転換していくことに近づく。今後も賃上げ動向の推移と日銀の政策判断の行方を注視していきたい。

[1] 厚生労働省「令和5年民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況を公表します」(2023年8月4日) https://www.mhlw.go.jp/content/12604000/001131825.pdf

[2] 日本銀行「経済・物価情勢の展望(2024年1月)」(2024年1月23日) https://www.boj.or.jp/mopo/outlook/gor2401a.pdf

[3] 日本銀行「金融政策決定会合における主な意見(2024年1月22日、23日開催分)」(2024年1月31日) https://www.boj.or.jp/mopo/mpmsche_minu/opinion_2024/opi240123.pdf

[4] 公益社団法人日本経済研究センター「ESPフォーキャスト調査」(2024年1月15日) https://www.jcer.or.jp/jcer_download_log.php?f=eyJwb3N0X2lkIjoxMTE1NDcsImZpbGVfcG9zdF9pZCI6IjExMTUyOSJ9&post_id=111547&file_post_id=111529

[5] 株式会社QUICK「QUICK月次調査・債権」(2024年2月1日) https://moneyworld.jp/news/05_00119146_news

[6] 東京商工リサーチ「全国企業倒産状況」(2024年1月15日) 
https://www.tsr-net.co.jp/news/status/detail/1198286_1610.html#:~:text=

[7] 公正取引委員会「よくある質問コーナー(独占禁止法)」 https://www.jftc.go.jp/dk/dk_qa.html

[8] 公正取引委員会「(令和4年12月27日)独占禁止法上の『優越的地位の濫用』に関する緊急調査の結果について」(2022年12月27日) https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2022/dec/221227_kinkyuchosakekka.html

[9] 公正取引委員会「(令和5年12月27日)独占禁止法上の『優越的地位の濫用』に係るコスト上昇分の価格転嫁円滑化の取組に関する特別調査の結果について」(2023年12月27日) https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2023/dec/231227_tokubetucyosakekka.html

[10] 内閣官房・公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(2023年11月29日) https://www.jftc.go.jp/dk/guideline/unyoukijun/romuhitenka/romuhitenka-1.pdf

※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。

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