2026.2.13 InfoCom T&S World Trend Report

世界の街角から:真夏の海に浮かぶ"立体都市" ~長崎・軍艦島、半世紀後の生活の輪郭

【写真1】海上から見た軍艦島(端島)の全景。まさに“軍艦”のシルエット (出典:文中掲載の写真はすべて筆者撮影)

濃い蒼の真夏の海の上に、薄黒い塊が浮かんでいる。近づくほどに直線的な護岸と、無数の窓の跡を持つ「街」へと姿を変えていく――2025年7月、私は長崎港から、やまさ海運株式会社の高速遊覧船「マルベージャ」に乗り込み、軍艦島へ向かいました。

旅客定員220名超の船内は満席。私は2階デッキの先頭付近に座り、日除けの下で潮の香りとエンジンの熱気を孕んだ風を受けながら、前方を眺めました。出航後しばらくすると、船は長崎港の沿岸部をなぞるように進み、船内ガイドの案内が始まります。右手に三菱重工業長崎造船所の巨大なクレーンやドックが見えてくると、船内から「おお」といった声が上がり、誰かが写真を撮り始めると次々にカメラが同じ方向を向きました。軍艦島に向かう航路そのものが、長崎という港町の“産業の背骨”をたどる時間になっていました(写真2)。

【写真2】長崎港沿岸の造船所。巨大なクレーン群が軍艦島へ向かう航路の始まりを告げる。

【写真2】長崎港沿岸の造船所。巨大なクレーン群が軍艦島へ向かう航路の始まりを告げる。

やがて沖合に黒い影が浮かび上がり、それが「軍艦島」だと分かる瞬間が来ます(写真3)。正式名称は端島(はしま)。やまさ海運の公式サイトによると、端島は1890年(明治23年)から三菱の経営となり、主として八幡製鉄所向けの原料炭を供給することで日本の近代化を支えてきた海底炭鉱の島です。もともとは草木のない小さな岩礁に過ぎなかったものが、6回にわたる埋め立てと護岸堤防の拡張の繰り返しにより、現在の形になったといいます。高層鉄筋アパートが林立して、さながら海の要塞の観を呈したことから、戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼ばれるようになったとされています。

2015年、この島は「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。評価されたのは廃墟としての迫力だけではなく、日本が短期間で近代化を成し遂げた過程を、労働と生活の両面から具体的に示す"現場"である点でした。

【写真3】軍艦島の姿が遠く視界に入ると、にわかに船内が沸き立つ。

【写真3】軍艦島の姿が遠く視界に入ると、にわかに船内が沸き立つ。

下船の際、あまりの日差しの強さにクルーズ会社が大きな麦わら帽子を貸してくれました。みんな同じ帽子をかぶって、島の指定広場にぞろぞろと歩いて向かうと、年配のガイドの女性が拡声器を片手に待っていました。この島の歴史を伝えるその流暢な語り口のなかで、印象的だったのは、「もしここから石炭が取れていなかったら、この島はただの岩礁だった」という言葉でした。島の存在理由が、地形でも景観でもなく、資源と産業だったことが、短い一言で実感されました(写真4、5)。

【写真4】下船後、グループで入島する。熱中症に十分に注意するように重ねてアナウンスがあった。

【写真4】下船後、グループで入島する。熱中症に十分に注意するように重ねてアナウンスがあった。

【写真5】島の指定見学広場で、ガイドの説明に耳を傾けるツアー参加者<br />

【写真5】島の指定見学広場で、ガイドの説明に耳を傾けるツアー参加者 端島炭鉱の中枢を担った赤煉瓦造りの総合事務所跡が当時の面影を今に残す。

上陸できるのは島の南端に限られ、その大部分は遠くから眺めるしかありません。それでも、見えない場所にあった生活を想像するだけで、十分に心が動きます(写真6)。

【写真6】崩落した建物跡

【写真6】崩落した建物跡
むき出しの鉄筋と散乱する瓦礫が、半世紀の風化の痕跡を刻む。
かつてここに人々の生活があったことを確かに伝えている。

むき出しの鉄筋と散乱する瓦礫が、半世紀の風化の痕跡を刻む。
かつてここに人々の生活があったことを確かに伝えている。

ガイドの方の説明によると、炭鉱労働者たちは海面下1,000メートル以上の深さまで降り、気温35度以上、湿度95パーセントという過酷な環境の中、8時間の3交代制で働いていたそうです。しかし、その分炭鉱員の給料は一般企業の2倍から2.5倍に達しました。電気・ガス・水道はほぼ無料に近く、昭和30年代後半、全国でのテレビ普及率がまだ低かった時代に、この島ではテレビ、冷蔵庫、洗濯機の「家電三種の神器」がほぼ100パーセントの家庭に揃っていたといいます。危険と隣り合わせの仕事の対価として、当時としては驚くほど豊かな暮らしがここにはあったのです。

共同浴場は3カ所あり、すべて無料で開放されていました。炭鉱から戻った工員たちは、まず海水の風呂で汚れを落とし、最後に真水のシャワーで仕上げる。水が貴重だった時代の工夫です。1957年に長崎半島から約6.5キロメートルの海底送水管が完成するまでは、給水船で水を運んでいたといいます。それまで各家庭に蛇口はなく、住民はバケツを持って共同の給水場へ水をもらいに行く生活を送っていました。

また、65号棟という建物は上から見るとカタカナの「コ」の字型になっており、廊下の両サイドに住居が並ぶ構造は、現在の大きなホテルと同じ発想だったとのことです。その屋上には幼稚園が設けられていました。エレベーターのない高層住宅で、子どもたちが階段を上り下りしていた光景を想像すると、廃墟の窓がただの穴ではなく「暮らしの数」に見えてきます。

この窓については、一部のアパートでは小さめに作られているといいます。台風が来ると大波のしぶきが建物を越えていくこともあったためです。真夏の穏やかな海を前にしているのに、「この海は優しいだけではない」と肌寒さを覚える瞬間がありました(写真7)。

【写真7】海上から望む軍艦島西側の団地群

【写真7】海上から望む軍艦島西側の団地群
こちらは外海に面していることから年間を通して比較的波が荒れやすく、防波堤が海面から10メートル以上の高さで築かれるも、台風などの際には島内まで強い波しぶきが入ってくることも多かった。このため、このエリアは、船内ガイドの説明によると「しおふりまち」とも呼ばれていたという。

こちらは外海に面していることから年間を通して比較的波が荒れやすく、防波堤が海面から10メートル以上の高さで築かれるも、台風などの際には島内まで強い波しぶきが入ってくることも多かった。このため、このエリアは、船内ガイドの説明によると「しおふりまち」とも呼ばれていたという。

娯楽も充実していました。島には「昭和館」と呼ばれる映画館があり、約100年前の昭和2年に建てられたそうです。当時は「活動写真」と呼ばれ、弁士が語りながら上映するスタイルだったとか。そして後世には、当時の娯楽の王様と言われたパチンコ店も設けられました。お寺や神社もありました。もちろん、学校(写真8)や病院などもありました。「端島銀座」と呼ばれた商店街には、食料品店、電器屋、酒店、理髪店などが並び、島民の生活を支えていました。つまり、周囲わずか1,200メートルの島に、生活に必要なほぼすべてが詰め込まれていたわけです(写真9)。

【写真8】海上から望む軍艦島北東部の様子

【写真8】海上から望む軍艦島北東部の様子
左端の白い建物が端島小中学校。7階建てで1階から4階までが小学校、5階から7階が中学校。6階には音楽室や図書室がある。校舎の向こうには運動場もあり、運動会も行われていた。最盛期には1,000名以上の子どもたちが通っていたという。

左端の白い建物が端島小中学校。7階建てで1階から4階までが小学校、5階から7階が中学校。6階には音楽室や図書室がある。校舎の向こうには運動場もあり、運動会も行われていた。最盛期には1,000名以上の子どもたちが通っていたという。

【写真9】別の見学指定広場

【写真9】別の見学指定広場
男性ガイドの、この島にかつて存在していた様々な生活施設の説明に耳を傾けるツアー参加者。

男性ガイドの、この島にかつて存在していた様々な生活施設の説明に耳を傾けるツアー参加者。

ただ、後日調べてみると、墓地と火葬場、そして十分な広さの公園などは島内になかったとのことです。島の面積があまりにも限られていたためです。亡くなった方は、約700メートル北にある中ノ島で荼毘に付されたといいます。この島が徹底した「生活と労働の場」であったことを、その事実が物語っています。

船が離れると、島はまた黒い影に戻っていきました。けれど、その影の中に確かに私たち日本人の生活があったことを、私はしばらく考え続けていました。

この島では、1960年頃に約5,300人もの人が暮らし、当時の人口密度は東京の約9倍と世界一を誇ったといいます。島は日本の近代化に多大な貢献を果たしましたが、主要エネルギーが石炭から石油へと移っていたことで1974年に閉山し、無人島になりました[1]。それでも、この地を訪れてみると、潮の匂いと乾いて崩れ落ちたコンクリートの中に、往時のにぎやかで活気に満ちた生活の痕跡が確かに刻まれていることが分かります。人々の声が、今にも耳に響きそうでした。

軍艦島は「過去の遺産」ではなく、「人々が全力で暮らした結果、ここに残った街」です。古代ローマの遺跡は、2000年以上経った今もなお当時の生活ぶりを伝えています。軍艦島も保存に向けた取り組みが続いています。これから2000年後の遠い未来の誰かがこの島を眺めたとき、何を思うでしょうか。人類が刻んだ貴重な遺産の一つとして、ぜひ一度、訪れてみてほしい場所です。

[1] 長崎市公式観光サイトhttps://www.at-nagasaki.jp/spot/51797

※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。

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