スマホで給与受け取り ~賃金のデジタル払い解禁について考える~
毎月の給与を銀行などへの口座振込で受け取るというこれまでの「当たり前」が大きく変わることになるかもしれない。いわゆる賃金のデジタル払いが今年4月に解禁され、○○ペイといった資金移動業者[1]が管理する決済口座で賃金を受け取ることができるようになる。これがこれからのキャッシュレス社会の実現にどのような影響を及ぼすのか、また、どのような課題があるのか考えてみたい。
まずは賃金の支払い方法に関する法的枠組みを確認しておきたい。賃金の支払い方法については、よく知られているとおり労働基準法で(1)通貨で、(2)直接労働者に、(3)全額を、(4)毎月1回以上、(5)一定の期日を定めて、支払わなければならないと定められている(賃金支払いの5原則)。現行法上、賃金は「現金払い」が原則とされているのである。一方で、現在、多くの人は銀行等の口座振込で賃金を受け取っているのではないだろうか。これは同法施行規則第7条の2で賃金支払いの5原則の例外として「使用者は、労働者の同意を得た場合には、賃金の支払いについて次の方法によることができる」とされており、その具体的方法として「当該労働者が指定する銀行その他の金融機関に対する当該労働者の預金又は貯金への振込み」と規定されていることに依るものである。つまり、給与を銀行等への口座振込で受け取るという多くの人にとっての「当たり前」は法律上は「例外」扱いなのである。昨年11月28日に同施行規則の一部が改正・公布されたことにより、従来の銀行口座・証券総合口座に加え、今年4月から資金移動業者口座への振込(デジタル払い)も認められることになった。
わが国における賃金のデジタル払いに関する議論は、キャッシュレス決済やフィンテックを経済成長戦略の一つと位置付ける政府の下で2015年の規制改革推進会議を皮切りに、2017年12月の国家戦略特区ワーキンググループのヒアリング[2]など様々な場で進められてきた。2019年度には成長戦略フォローアップ[3]において「資金移動業者の口座への賃金の支払を可能とすることについて、(中略)、今年度、できるだけ早期に制度化を図る」と制度化が明記されるに至った。このような動きを受け、2020年8月から厚生労働省の労働政策審議会労働条件分科会において規制緩和に向けた検討が進められ、主に資金移動業者破綻時の資金の保全や不正引き出しへの対応、換金性、労働者の同意などについて議論が百出していたが、昨年10月に前述の労働基準法施行規則の一部を改正する省令案が同審議会にて了承され、11月に公布された。
賃金のデジタル払いの解禁により、どのような政策効果や企業・労働者へのメリットが生まれるのだろうか? まず考えられるのが、銀行口座から資金移動業者が提供する口座にチャージする手間がなくなるなどの利便性向上に伴うキャッシュレス決済の更なる普及拡大の可能性である。政府はキャッシュレス決済比率を2025年までに4割程度、将来的には世界最高水準の80%まで上昇させることを目指している。経済産業省の発表[4]によるとキャッシュレス決済比率は2011年の14.1%から2021年の32.5%へと大きく上昇している。とりわけ急速に広まりつつあるのがスマートフォン上の決済アプリを利用してQRコードやバーコードを読み取ることにより決済を行うコード決済である。コード決済比率は2018年の0.05%から2021年には1.8%へと急速に上昇しており、その国内市場規模も2019年の0.5兆円から2025年には9.7兆円に達するとの推計[5]もある。今回のデジタル払いの解禁がキャッシュレス化の一層の進展に寄与する可能性はあるであろう。
また、銀行口座の開設が困難で、銀行振込に代替する賃金支払い手段への需要が高い外国人労働者への金融サービスとして利用される可能性も考えられる。外国人労働者数は2022年10月末現在で約182万人と、届出が義務化された2007年以降過去最高を更新している[6]。少子高齢社会の進展に伴い労働力人口の減少と人手不足がさらに深刻化するわが国においては、外国人労働者の受け入れニーズは今後も一層高まることが想定される。デジタル払いはこうした外国人労働者の日常生活や本国への送金を支える手段としても有効であり、わが国の経済社会活動を側面から支える新たな金融プラットフォームとして機能することも期待できるかもしれない。
企業などの使用者にとっては賃金のデジタル払いを望む労働者の人材確保や定着のための有効な手段の一つとなることや、銀行振込よりも手数料が安価となる可能性があることなどのメリットが考えられる。また、労働者にとっても銀行口座から資金移動業者の○○ペイへのチャージの手間が不要となったり、貯蓄と決済口座に分別するなどの給与口座の用途別管理が行いやすくなったり、日払いや週払いなど、短期の賃金受け取りに対応しやすくなるなど、副業・兼業も含めた多様な働き方に対応した賃金受取手段の選択肢が増えるといったメリットが考えられる。
一方で、どのようなリスクや課題があるだろうか? 資金移動業における利用者保護のためのスキームは預金保険制度等の枠組みが整備されている銀行等と比べ脆弱であると言われている。まずは、今後のデジタル社会を支える金融インフラの一つとして、資金移動業者による利用者保護の枠組みが既存の銀行等と同程度のものとなり、消費者や労働者が「安心して利用できる」と認識できるようになることが重要であると考える。とりわけ、資金移動業者が破綻した場合においても賃金が確実に支払われ、労働者が保護されるスキームの構築は極めて重要である。今回の解禁にあたっては、金融庁による資金決済法等に基づく規制(「1階部分」)に加え、厚生労働省による労働基準法施行規則に基づく賃金の確実な支払い担保のための規制(「2階部分」)という、いわゆる「2階建て」の規制・監督が行われることとされている。また、万が一資金移動業者が破綻した場合、保証機関が速やかに口座残高の全額を弁済する仕組みも導入される予定であり、解禁後にこれらの実効性を検証し高めていくことが求められる。これに加え、厚生労働省の分科会においても懸念や整理を求める声が数多く出されていたマネーロンダリング・テロ資金供与・拡散金融対策、資金移動業者口座の滞留資金の取り扱い、個人情報保護、データ管理のあり方などについて、国は解禁後においても不断の議論と検証を行い、必要に応じた制度見直しなどに取り組む必要がある。
なお、2022年12月末現在、金融庁に登録されている資金移動業者は83業者[7]だが、すべての資金移動業者に賃金支払いが認められるわけではなく、要件を満たす資金移動業者を厚生労働大臣が指定するとされている。その要件として厚生労働省は(1)破綻時の労働者への速やかな債務保証、(2)口座残高の上限設定(100万円以下等)、(3)労働者の責によらない不正取引で損失が生じた場合の補償、(4)取引がない口座の維持(最低10年間)、(5)1円単位の資金移動と月1回の無料取引、(6)厚生労働大臣への報告体制、⑦技術的能力と社会的信用、を挙げている[8]。指定を受けようとする資金移動業者は、これらの要件を満たすことを示す申請書を厚生労働大臣に提出しなければならず、これらを満たすことができなくなった場合には指定を取り消されることもあるとされている。
企業などの使用者には、「銀行口座への振込による賃金支払いと同程度の労働者保護を確保する」という制度設計の趣旨が雇用の現場で損なわれることがないよう、とりわけ丁寧な対応が求められる。具体的には、労使間で十分な話し合いを行うことや、労使協定の締結、就業規則の変更、さらには、労働者が銀行等口座への振込も選択できることや、資金移動業者口座の資金保全、資金移動業者が破綻した場合の保証などについて労働者に説明し、同意を得ることなどが必要になる。これらに加え、個々の社員の希望に応じて振込先や金額を都度変更するなどの対応も必要となることから、システム整備も含め相応の事務負担とコストの増大も発生するであろう。企業等はこれらを総合的に勘案したうえで、それぞれの経営戦略や実状に応じて導入の是非を判断していく必要がある。なお、厚生労働省の通達[9]によると「今般の改正は、賃金の支払方法に係る新たな選択肢を追加し、労働者及び使用者の双方が希望する場合に限り、(中略)資金移動によることを可能とするものであり、当該支払手段を希望しない労働者及び使用者に対して強制するものではない」とされており、仮に労働者が希望したとしても使用者はそれに応じる義務はないことを付記しておく。
これまで述べてきたことを総合的に勘案すると、賃金のデジタル払いが解禁されたとしても、それがすぐに広く社会一般の賃金受取方法のスタンダードとなることは考えづらいであろう。資金移動業者やその周辺企業、一部のコード決済利用者から利用が順次始まり、様々な課題がクリアされていくことや安全性・利便性の高さが広く一般に認知されることに伴い利用者が拡大していくことになるのではなかろうか。厚生労働省や金融庁はもとより資金移動業者などの関係事業者も含め、官民一体となってより安全で利便性の高いデジタル払いの仕組みの構築に向けて、制度設計や規制、提供するサービスのあり方などを検証し、必要な改善を続けていくことが必要だ。解決すべき課題は多いが、今後のキャッシュレス社会の実現に向けた新たな選択肢が増えることは歓迎したい。果たして、賃金のデジタル払いが今後のキャッシュレス社会の発展を促進する成長エンジンの一つとなるか、今後の動向を注視したい。
[1] 資金決済に関する法律(平成21年法律第59号)に基づき、内閣総理大臣の登録を受けて、銀行その他の金融機関以外の者で為替取引を業として営む者。
[2] 内閣府国家戦略特区「平成29年度提案に対するヒアリング」
https://www.chisou.go.jp/tiiki/kokusentoc_wg/h29/hearing_t.html
[3] 内閣官房「成長戦略フォローアップ」(令和元年6月21日)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/pdf/fu2019.pdf
[4] 経済産業省ニュースリリース「2021年のキャッシュレス決済比率を算出しました」(2022年6月1日)
https://www.meti.go.jp/press/2022/06/20220601002/20220601002.html
[5] 公正取引委員会「QRコード等を用いたキャッシュレス決済に関する実態報告書」(令和2年4月)
https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2020/apr/chouseika/200421_houkokusyo_2.pdf
[6] 厚生労働省「『外国人雇用状況』の届出状況まとめ」(令和4年10月末現在)
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_30367.html#:~:text
[7] 金融庁「資金移動業者登録一覧」
https://www.fsa.go.jp/menkyo/menkyoj/shikin_idou.pdf
[8] 厚生労働省「資金移動業者の口座へ賃金支払の制度の概要(骨子)」をもとに筆者要約
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001016402.pdf
[9] 厚生労働省「労働基準法施行規則の一部を改正する省令の公布について」(基発1128第3号 令和4年11月28日)
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001017089.pdf
※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。
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