世界の街角から:タイのカオスなケーブル
タイ王国の首都バンコクは東南アジアを代表する大都市だ。経済の中心地であることを象徴するかのように林立する高層ビルに加えて、金色に彩られた寺院、太古の歴史を感じる遺跡群、カラフルなライトと爆音で街中を疾走する3輪車“トゥクトゥク”、スパイスや酸味が強烈なタイ料理、少し足を伸ばせばエメラルドグリーンの海や美しいビーチが楽しめる(写真1)。そんな常夏の街には、世界中から多くのビジネスマンや観光客が訪れる。しかし、本稿で取り上げるのは、キラキラした観光地の話ではなく、人々の暮らしを支える街中のケーブルの小話である。
筆者はコロナ禍ともろに被る2020年から2023年まで、バンコクで生活する機会を得た。
感染者数の増減に応じて厳しいロックダウンが繰り返され、海外との往来もほぼ適わず、普段の喧騒が嘘のように静まり返ったバンコクの街で過ごす日々は、赴任前に期待した東南アジアを飛び回る活動的な駐在員生活とは異なったものの、色々な意味でとても貴重な人生経験となった。
タイには、令和5年の国別在留邦人数で米国、中国、豪州、カナダに次ぐ5位にランクするほど多くの日本人が暮らしている 。中でもバンコクには日本人が多く生活する地区があり、日本食レストランや日系スーパーマーケットも豊富で、バンコク日本人学校は生徒数が2,000人を超え世界有数の規模を誇るなど、初めて海外で生活する日本人にとって暮らしやすい場所だ。経済成長著しい東南アジア市場の拠点としてタイには自動車や電機に代表される日系企業が6,000社近く進出しており、米中摩擦の影響でチャイナプラスワンの動きが強まる中、日本の産業界にとって益々重要な国となっている。過去を振り返れば、古都アユタヤに日本人町の跡が残るなど、タイと日本には600年を超える交流の歴史もある。
筆者が赴任した2020年3月は、感染対策が最も厳格な時期であり、政府から極力外出しないよう指示があった。在宅勤務が続く日々の中で、数少ない楽しみが食料品などの買い出し時の街歩き。民家の庭先に植わっている熱帯性の植物、屋台で売られているナマズの丸焼き、穴ぼこがそのままの歩道など、強い日差しを浴びながら、興味深く眺めた異国の景色は今でも鮮明な記憶として残っている。
そんな街並みで一際目を引いたのが、カオスな電気・通信ケーブルである。職業柄、日本で生活していても電柱に敷設されたケーブルに目が行きがちな自分だけが気になるのかとも思ったが、検索サイトで「タイ 電線 カオス」などと検索すると感動的な画像が多数ヒットすることから、興味を持つ人は多いようだ(写真2)。
これでもかとケーブルが括りつけられた電柱は、張力とケーブルの重さで大きく傾く。電柱間を縦横無尽に配線されたケーブルは、時に途中で切断されて歩道に垂れ下がったまま放置されていることもあり、街歩きの際は足元と頭上の両方に注意する必要がある。古いケーブルを整理することなく、新たなケーブルを敷設し続けるのもタイの文化と納得してしまいそうになるが、垂れ下がったケーブルにバイクの運転手が引っ掛かって転倒したり、電気ケーブルに触れて感電したりして犠牲になる痛ましい事故も起こるため、解消すべき社会問題の一つである。
在宅勤務中心であった当時の筆者にとって、インターネットはオンライン会議などで外部とつながる貴重なライフラインであり、カオスなケーブルは感謝すべきインフラだった。見た目はカオスであるものの、部屋に据え付けのWi-Fiも含めて通信速度は必要十分で、時々、アパートの電気設備に鳩が入り込んで停電(もちろん、鳩は感電してお亡くなりになる)する以外はトラブルもなく安定した通信環境を享受することができていた。
そんなある日の夕方、わが家のインターネットが突然使えなくなった。近所で黒煙が上がり、鳴り響く消防車のサイレンはただならぬ雰囲気。消火活動が終わった頃を見計らって、恐る恐る騒がしかった方面へ向かってみると、自宅から500mほど離れた場所で大量のケーブルが焼け落ちていた(写真3)。マンションの管理人に聞いたところによると、タイでは電気ショートが原因でケーブル火災が起こることも珍しくないらしい。
翌日のオンライン会議のスケジュールを思い出しながら、茫然と火災現場にとどまっていると、竹梯子を乗せたトラックや工具箱を片手にしたバイクが集まってきた。修理職人は一様にTシャツにジーパン姿で、わいわいがやがやと、どことなく楽しそうである。そうこうする間に、近くの電柱に梯子をかけ、手作業で焼け落ちたケーブルの撤去が始まる(写真4)。道端では、光ファイバーの接続キットを広げて、ケーブル接続の準備を進める姿もある。あれだけ無秩序に張られていたケーブルが1スパンすべて焼け落ちてしまったのだ。人海戦術で使えなくなったケーブルを撤去し、使用中のケーブルと役目を終えて放置されたケーブルを判別し、必要なケーブルを張り直した上で1本ずつつないでいくのは気の遠くなるような作業に思えた。そして、数えきれないケーブルのうち、わが家のインターネットに関係する光ファイバーは1本だけ。早期の修理を期待することは諦め、スマホのテザリングでも在宅勤務は続けられると言い聞かせてその場を離れることにした。
ところがである。翌朝、わが家のインターネットは復旧していた。急ぎ、昨日の火災現場を見に行くと、まだ作業中の職人もいるものの、ケーブルの張替えは完了している様子。新たに張り直された箇所は周辺と比べてケーブル本数が少なめな印象だが、それでもカオスな雰囲気は残ったままであった。驚くべき修理スピードであった。台風や地震などの災害時に報道される、バケット車に乗って作業服姿で修理活動を行う日本の凛とした通信エンジニアとは雰囲気が異なるタイの修理職人だが、通信インフラを守る使命感と過酷な現場でも修理を遂行する底力は共通なのかもしれないと、感謝の気持ちでいっぱいとなった。あれから数年が経ち、在タイの友人たちのSNSからは、コロナ前の喧騒が戻ったタイの様子がうかがえる。またプライベートでバンコクを訪れ、カオスなケーブルと再会したい。
※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。
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