インターネット投票のリスク ~豪州ニューサウスウェールズ州におけるインターネット投票の中止~

国内ではコロナ禍でリモートワークやイベントのオンライン化が進んだが、国政選挙におけるインターネット投票(以下、「ネット投票」)は今のところ実現していない。なぜならネット投票の実施には、法制度や投票の原則(秘密投票、一人一票の原則、自由投票)の担保を含めた環境整備について詳細な検討が必要だからだ。そこで、総務省は全有権者を対象としたネット投票ではなく、まずは国外に居住する有権者が国政選挙に投票できる制度「在外選挙制度」における、ネット投票の導入に向け、慎重に検討を進めている[1]。
世界ではエストニアやフランスなど、日本に先立ち、国政選挙でネット投票を導入している国がいくつかあり、豪州のニューサウスウェールズ州(以下、「NSW州」)でもネット投票が実施されていた。しかし、同州で2021年12月に実施された地方議会議員選挙で、ネット投票システム「iVote」に不具合が生じ、選挙運営に重大な支障をきたしたため、それ以降はネット投票が凍結されることとなった。
本稿では、NSW州がネット投票のために開発したシステム「iVote」の概要とネット投票中止に至るまでの経緯を解説し、ネット投票を実施する際のリスクについて考察する。
NSW州におけるインターネット投票システム「iVote」とその利用条件
NSW州のネット投票中止の経緯を解説する前に、まずは同州で利用されていたiVoteのシステム概要とiVote利用条件ついて概説する。
NSW州では2011年の州議会議員選挙からネット投票システム「iVote」によるネット投票が開始された。iVoteは「利用登録および認証情報管理システム」「投票システム」「確認システム」の3つの主要システムから構成されている。このうち、投票システムと確認システムについてはスペインの電子投票システムプロバイダの「SCYTL」のシステムを活用している(図1)。以下に各システムの詳細について概説する。
【利用登録および認証情報管理システム】
NSW州選挙管理委員会が開発したシステムで、有権者の利用登録を受け付ける。有権者が利用申請を行うと、利用登録システムから認証情報管理システムに申請情報が送られ、有権者のiVote番号が作成される。
【投票システム】
投票システムはオンラインコンポーネントとオフラインコンポーネントで構成されている。
オンラインコンポーネントはSCYTLから提供され、Secure agilityがホストし、有権者がインターネットを用いて投票できる安全なプラットフォームが提供されている。有権者が投票用のWebサイトにアクセスするには、iVoteの利用申請時に作成されたiVote番号とパスワードを入力する必要がある。有権者の投票内容は投票システムに安全に転送され、電子投票箱に収められたのち、有権者に受領証が発行される。有権者は投票後に、自身の票が投票システムに届けられたかどうかをポータルで照会できる。
投票システムのオフラインコンポーネントは、エアギャップ[2]が確保されており、NSW州選挙管理委員会によってホストされ、暗号鍵の作成、投票システムの設定などに使用される。またクレンジング[3]、ミクシング[14]、復号など、投票における重要な手順の実行にも使用される。
【確認システム】
自身の票を投票者が確認する方法として、確認用のモバイルアプリケーションと電話による確認の2種類の方法が用意されている。また、確認システムは投票システムから送られた受領証のコピーも保管している。確認システムは、AC3がホストしている。
2021年12月の地方議会議員選挙は12月4日午前8時~午後6時にかけて実施された。iVoteによるネット投票期間は利用申請後~12月4日午後6時で、以下のiVote利用条件のいずれかを満たす有権者のみが利用申請をすることができた。
- 視覚に障害があるもしくは視力が十分でない。
- 視覚以外の障害を有しているまたは文字の読み書きが困難であるため、投票所での支援なしの投票が困難。
- 住所非公開(Silent elector)[5]。
- 投票所から20km以上離れた場所に居住している。
- 選挙日の投票時間中に居住する選挙区にいない。
- 郵便投票に申し込んだが、投票用紙を2021年11月26日午後5時以前に受け取ることができていない
利用が許可されると投票に進めるが、地方議会議員選挙におけるネット投票では申込みから票のカウントまで、以下の①~⑤のプロセスがあった。
【①申込み】
利用条件を満たす有権者はオンラインまたは電話にてiVoteの利用を申請する。オンライン申込みページでは、氏名、生年月日、郵便番号、住所を入力し、パスポート、運転免許証、保険番号のいずれかを用いて本人確認を行う。利用が認められると、iVote番号が割り当てられ、その際に有権者はパスワードを作成する。
【②投票】
利用が認められた有権者はiVote番号と作成したパスワードを用いてシステムにログインし、候補者を確認して投票する。また、投票結果を提出する前には、意図した投票内容と相違ないか確認をする手順が入る。
【③票の保存】
投票後、投票内容が有権者の端末上で暗号化され、インターネットによりデータ保存用サーバーに送られ、保存される。
【④確認】
有権者は投票後に表示されるレシートまたはQRコードにより、票が意図したとおりに投票されたかどうかを確認する。この確認作業の実施は任意である。
【⑤票の集計】
投票者情報が票から切り離され、ミクシングが実施される。これにより投票内容から投票者を特定することはできなくなる。ミクシング過程を経た票が復号化され、集計システムにアップロードされる。また集計システムには紙での投票内容も合わせて保存される。
2021年地方議会議員選挙と、iVoteシステムの不具合
NSW州の地方議会議員選挙におけるiVoteを用いたネット投票は2021年12月に初めて実施された。それまでiVoteの使用は州議会議員選挙と一部の地方議会議員補欠選挙でのみ認められていたが、コロナ禍における感染拡大予防策の一つとして、2021年から地方議会議員選挙においても全面的にiVoteの使用が認められることとなった。
2021年12月の地方議会議員選挙では、有権者は以下の4つの投票手段により投票した。選挙結果発表は12月20日~23日(地域によって異なる)。
- 投票所での投票(選挙日当日:2021年12月4日)
- 期日前投票(2021年11月22日~12月3日)
- 郵便投票(2021年12月17日までにNSW州選挙管理委員会必着)
- iVoteによるネット投票(2021年12月4日午後6時まで)
iVoteシステムの不具合はネット投票最終日である12月4日に発生した。通常、同システム利用者は利用登録後、メールまたはSMSで受け取るiVote番号を用いてシステムにログインし、投票することになっているが、システムから同番号が送信されなかった。その結果、複数の有権者がiVoteにログインすることができず、投票することができなかったのだ[6]。
不具合の発生原因としては、iVoteの使用範囲が拡大され、利用者が大幅に増加したこと、ネット投票最終日にアクセスが集中した結果、サーバーのキャパシティを超えたことが指摘されている。
iVote利用者が増加したことは、iVoteによる投票数の推移からも明白だ。2021年地方議会議員選挙の前に実施された2019年州議会議員選挙では234,401票がiVoteにより投じられたが、2021年地方議会議員選挙では約2.8倍の671,594票が投じられている(図2)。
NSW州選挙管理委員会の対応とiVoteによるネット投票の凍結
NSW州選挙管理委員会は原因究明と再発防止のためにiVoteの利用を凍結し、システムの不具合が地方議会議員選挙に与えた影響に関して調査を始めた。
同調査では、システムに不具合がなかった場合に加算される票数を考慮し、投票結果の集計シミュレーションを1,000回行った。その結果、Kempseyでは610回(61%)、Singletonでは432回(43.2%)、City of Shellharbourでは70回(7%)、異なる投票結果が表出した。
同調査結果を受け、NSW州選挙管理委員会はKempsey、Singleton、City of Shellharbourの3地域[7]において、iVoteシステムの不具合により、投票できなかった有権者が複数いたことが選挙結果に影響を及ぼした可能性があると判断し、NSW州最高裁判所に選挙結果の有効性に関する判決を求めた。最高裁判所は、すべてのiVote利用者が投票できていた場合、選挙結果が変わる可能性があるため、同3地域におけるiVoteの不具合は地方政府法に反するとし、2022年3月17日に選挙結果が無効であるとの判決を下した(表1)。
最高裁判所の判決を受け、NSW州選挙管理委員会はKempsey、Singleton、City of Shellharbourの3地域で、2022年7月30日に再選挙を実施することを決定した。再選挙ではネット投票は実施されず、投票所での投票(投票日当日)、期日前投票(7月18日~29日)、郵便投票の3つの手段で有権者は投票した。
NSW州におけるiVoteの利用は、本稿執筆時点においても凍結中である。州選挙管理委員会は、2027年の州議会議員選挙でのネット投票の再開を目指し、市民や各団体からの意見公募を実施し、システムの再構築について検討を進めている。
ネット投票のリスクと今後
エストニアの選挙やフランスの在外選挙など、世界には国政選挙レベルでネット投票の取り組みを進めている国がいくつかあり、その有効性が示されつつあると言える。しかし、日本の選挙で導入していくには、投票の原則をどのように担保していくのかなど、解決すべき課題も多い。また、実施に至ったとしてもNSW州のように、システムの不具合により選挙運営に支障をきたす可能性もあるため、対応策の検討も求められる。国内での導入に向けて、どのようにネット投票を導入し、運用しているのかなど、海外事例から学ぶことも多いはずだ。
NSW州では中止や停止になることなく10年間ネット投票が続けられていたが、2021年の選挙で起きたインシデントによりネット投票は凍結されることとなった。投票や申込みのためのシステムで、締め切り直前にアクセスが急増することは珍しいことではない。そのような事態にも対応できるよう、システムやアプリケーションを構築する必要があるが、選挙のためのシステムであればなおさらだ。
本稿ではNSW州のネット投票におけるシステムの不具合について概説したが、フランスで実施された在外選挙におけるネット投票でも小規模なシステムの不具合は起きている。ネット投票を実施する際には、システムに不具合が起きるリスクがあることも考慮したうえで、実施について慎重に検討を進める必要があるだろう。
インターネット技術や通信技術の発展は目まぐるしく、人々のコミュニケーション手段は日々進化している。本稿で考察したように、ネット投票にはリスクが潜む反面、投票率の向上や障害者の秘密投票の権利の保護、集計作業の簡素化など利点が多いのも事実だ。将来的には日本国内でも選挙の原則が担保された環境で、投票所へ足を運ぶ必要なく投票できるようになる日が来ることを期待したい。
[1] 「令和4年度 在外選挙インターネット投票システム の技術的検証及び運用等に係る調査研究事業 最終報告書(概要版)」情報通信総合研究所 https://www.soumu.go.jp/main_content/000904096.pdf
[2] 2つのシステムが物理的にも論理的にもつながっておらず、隔絶している状態を示す。コンピューターネットワークにおいてセキュリティを高める方法の一つ。
[3] 票をカウントする前に電子投票箱の中身を確認し、二重投票等の無効票と有効票を分け、有効票のみをカウントできるようにする作業。
[4] 票と投票者の証明となるハッシュ関数を取り除き、投票箱に入った票と暗号化された票の相関性を消去する作業。
[5] 選挙人名簿上に住所を公開していない有権者のこと。NSW州ではすべての有権者は選挙人名簿に氏名と住所を登録し、最新の状態に保つ必要があるが、住所が公開されることで、有権者本人またはその家族に危険が及ぶと考えられる場合は、住所を非公開にすることができる。
[6] 豪州では投票は義務となっており、投票しなかった有権者には罰金が科せられるが、iVoteの不具合が原因で投票できなかった有権者は罰金の対象から外された。
[7] NSW州全体では200地域以上で地方議会議員選挙が実施されている
※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。
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