2020年10月15日掲載 ITトレンド全般

昔の世界の街角から:35年前の中国

今号の「世界の街角から」も、新型コロナ対策(?)として、「昔の世界の街角から」をお届けします。

私事ながら、筆者はかつて大学で中国語を専攻していました。在学中に一度でも中国に行って、生の中国語を聞かねばと思い、大学3年から4年になる1985年の春休みに中国を1カ月超、バックパッカーとして旅行しました。このときの全行程は香港~深圳~広州~桂林~貴陽~昆明~成都~西安~北京~上海~杭州~広州~香港とほぼ一筆書きに35日間かけて一周しました。

35年前は、学生向け自由旅行のバイブルとして出版された『地球の歩き方・中国自由旅行編』が出てまだ3年程度しか経っておらず、外国人が入れない都市もたくさんあるだけでなく、事前の情報も少なく内容も偏っていて、初めて海外旅行をする学生にとっては、旅行のワクワク感よりも探検に行くような趣、場合によっては二度と日本に帰ってこられないのではという緊張感がありました。中国も改革開放政策は既に始まっていましたが、市場経済が始まるのは1991年なのでまだ数年先の話。現在の中国と比べれば、この頃は日本でいえば現在と江戸時代くらいの差があったといっても言い過ぎではないと思います。もちろんスマホやネットなどはあるはずもなく、日本と香港往復の航空券と香港・広州の2泊(気が小さかったので最初だけツアー形式)以外の交通や宿泊などの手配は、すべて現地に着いてからという行き当たりばったりのサバイバル的な1カ月でした。

今回は当時の写真をもとに、一部現在の写真との比較を取り混ぜながらご紹介したいと思います。隔世の感が伝わったら何よりです。

35年前の万里の長城

実際の旅行の順番とは一部異なりますが、最初に北京郊外の万里の長城から。当時長城で観光で行けたのは、この八達嶺長城だけだったと思います。周囲の中国人の服装は大半が当時日本では「人民服」と呼ばれた地味な紺色系の服装ばかりですが、長城そのものは現在とそれほど変わっていないと思います。もちろん、現在の八達嶺は高速道路が写真1の正面の山をぶち抜いて右の方に抜け、ロープウェイでも登れるようになり、交通はとても便利になりましたが、当時は市内からここまでは対面通行の山道を2時間以上かけて来た記憶があります。写真1、2は俗に「女坂」といわれる勾配がややなだらか(といっても相当のものですが)な方です。長城にはその後の1990年代の北京駐在時にアテンド等で20回以上行くことになりましたが、この当時はそのようなことは予想だにしていませんでした。

【写真1】万里の長城

【写真1】万里の長城
(出典:筆者撮影。文中掲載の写真は、一部記載のあるものを除きすべて筆者撮影)

【写真2】万里の長城

【写真2】万里の長城

写真3は、北京市内でこの長城の1日ツアーに乗ったときのチケットです。宿泊したホテルに近く、天安門広場にも至近な前門からの出発ですが、このチケットの後ろに残っていた領収書を見てみると6元(当時のレートは1人民元=90円前後)。乗ったバスは左側通行に変わった沖縄から払い下げられた左ハンドルの乗り合いバスで、日本語で書かれた行き先表示や押しボタンなどそのままの状態でした。現地ツアーなので、外国人は私と友人のもうひとりのみ。長城のほか、明の十三陵にも回りました。長城近くのローカルな食堂で他の客と一緒にテーブルを囲んで昼食をとった記憶があります。

【写真3】万里の長城1日ツアーのチケット

【写真3】万里の長城1日ツアーのチケット

 

写真4は見かけ上は現在とほとんど変わっていない天安門です。このときはまだ横断歩道で天安門広場から天安門に直接歩いて入れました。正面を横切る長安街をくぐる地下道ができたのは確か1987年頃だったかと思います。90年代後半には国旗の掲揚台が設置され衛兵が常駐するようになりました。写真5は長安街の東単交差点を南東角から西に向かって見たところで、ずっと左の方に行くと天安門広場まで徒歩15分くらいの位置関係です。真ん中左の信号機の奥の方にある建物が、この当時唯一の高級ホテルだった北京飯店。交差点の左側には「マルクス・レーニン主義万歳」と書いてある大きな赤い看板があり、時代を感じさせます。現在、この周辺は高層のビルが立ち並ぶ北京の中心街に変貌しており、全く昔の面影はないといってよいでしょう。

【写真4】35年前の北京・天安門

【写真4】35年前の北京・天安門

【写真5】35年前の北京・東単の交差点

【写真5】35年前の北京・東単の交差点

 

35年前の上海

さて、次は35年前の上海です。北京は主に歴史的な観光地や建造物が多いので意外と今との差が少ないかもしれませんが、上海の場合はより変化の大きさを感じます。

写真6は、上海市の中心にある「人民広場」から、現在は歩行者天国になっている「南京東路」の方角を映したものです。今では人民広場は複数の地下鉄の接続駅がこの下にあって高層ビルがたくさん建っている上海の旧市街のハブ的な場所になっているところです。この当時の上海は、まだ開発が行われる前で、全体的に暗い雰囲気の中に人だけがたくさんいるという感じでしたので、旅行者としての第一印象は率直に言ってよくありませんでした。

【写真6】35年前の上海・人民広場

【写真6】35年前の上海・人民広場

 

写真7は、外灘(バンド)から黄浦江を見たところ。おそらく写真の右側が現在東方明珠タワーや超高層ビルが立ち並ぶ浦東地区になるのですが、この当時は何もありません。漁船がたくさん繋留されている記憶がある以外は全く何も記憶がなく、10数年後に今のようになるとは全く想像に及びませんでした。むしろこのとき感じたのは、上海はかつて東京以上に発展していた都市だったはずなのに、街の活気が感じられない状態にしてしまった当時の政治状況への疑問でした。その後の発展振りを見ると、国の政策次第で上海のような都市は容易に発展できる潜在力を持っていたことが明らかだと感じます。現在の外灘から浦東方面の様子は写真8のとおりですが、完全に別世界といってもいい状況です。

【写真7】35年前の上海・外灘(バンド)から浦東方向を臨む

【写真7】35年前の上海・外灘(バンド)から浦東方向を臨む

【写真8】現在の上海・外灘からの浦東方向

【写真8】現在の上海・外灘からの浦東方向
(出典:Google Streetview)

写真9、写真10は、「上海の浅草」といえる昔からの観光地の豫園(よえん)です。中に小さな池があり、その周囲に浅草の仲見世のような商店街が連なっているところですが、当時池のほとりで撮った写真が残っていました。北京も上海も着ているものはほとんど変わらない人民服です。ちなみに、現在(2019年5月撮影)の豫園は写真11のように、電飾が施されて見違えるような美しさになっていますが、建物はうまく昔の雰囲気が保存されています。

【写真9】35年前の上海・豫園

【写真9】35年前の上海・豫園

【写真10】35年前の上海・豫園

【写真10】35年前の上海・豫園

【写真11】現在の上海・豫園

【写真11】現在の上海・豫園

 

このときの上海で思い出すのは、かつての日本租界の中にあった魯迅公園というところを1人で歩いていると、日本語を勉強しているという2人の復旦大学の学生(写真12)に話しかけられたことです。確か彼らは筆者と同い年で、上海以外のどこかの地方の出身だったと思いますが、非常に熱心に日本や日本語のことを聞いてきたことを覚えています。この後彼らの宿舎の部屋にもお邪魔しました。帰国後彼らには写真を送りましたが、その後どうなられたのか。もしかしたら日本でビジネスをしているのかもしれません。二人とも純粋で真面目な方でしたので、きっと今頃立派な方になられているでしょう。

【写真12】復旦大学の学生と

【写真12】復旦大学の学生と

昔のものを今回探していたら、ちょうど上海でこのとき乗車したタクシーの領収書が残っていました(写真13)。乗車時刻やメーターの記録が随分と丁寧に書いてありますが、この頃の中国のタクシーはごく一部の中国人や外国人などしか乗ることがなかったと思いますので、たぶんサービスとしては却ってその後の市場経済になった時代よりも良かったかもしれないと思うところです。

【写真13】タクシーの領収書

【写真13】タクシーの領収書

35年前の杭州

次は、上海からすぐ南、観光都市でもある杭州の35年前の写真です。今の杭州は確かに高速鉄道に乗れば東京から横浜くらいという距離感ですが、当時は上海から特急でも4時間以上かけ、寝台車のコンパートメントに乗車したことを記憶しています。写真14は杭州の銭塘江大橋。銭塘江はこれより河口で年一度発生する大逆流・海嘯でも有名なところで、写真は川岸にある「六和塔」の頂上から見下ろしたものです。この近くまで行って当時の中国では当たり前に走っていたSLを見物しました(写真15)。

【写真14】杭州・銭塘江大橋

【写真14】杭州・銭塘江大橋

【写真15】杭州郊外で見たSL

【写真15】杭州郊外で見たSL

杭州といえばやはり西湖という湖が有名ですが、写真16のように当時のアナログな写真でもなかなかきれいな写真が撮れました。写真17は、杭州動物園のパンダ。この旅行では北京動物園でもパンダを見ましたが、現在の中国と違ってパンダにかけられる予算も少なかったのか、良くいえば自然な姿、悪くいえば白いところがだいぶ汚れていて残念な状況になっていました。

【写真16】杭州・西湖

【写真16】杭州・西湖

【写真17】杭州動物園のパンダ

【写真17】杭州動物園のパンダ

 

この後、おそらく杭州から広州までの寝台車で同室になった中国人と話したときの筆談のメモが出てきました。左上に杭州の名産について書いてあるほか、「未完の大局」「寅次郎的故事(寅さん)」「蒲田行進曲」「星球大戦(スターウォーズ)」などと書いてあり、映画の話をしたことがよくわかります。この頃寝台車に乗るような方々は、結構日本や海外のことを知っていたこともわかります。

【写真18】当時の筆談の残骸

【写真18】当時の筆談の残骸

このときは広州から香港に向かうのに、広州で毎年開催される大規模な「広州交易会」の時期と重なり、汽車の切符がとれず、学生の筆者にはやむなく高かった飛行機に乗りました(写真19)。当時の「中国民航」の文字が懐かしいです。飛行時間30分くらいで香港に着いたと思いますが、やっと大陸を離れるという安堵の気持ちと、もう少しいたいという両方の気持ちがありました。いずれにしても、自分にとってはその後の中国との関係の基礎になった経験として、35年経っても忘れられない思い出になっていることは間違いありません。

【写真19】広州から香港へのフライト

【写真19】広州から香港へのフライト

※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部無料で公開しているものです。

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