農業DXを起点とした農村の地域OSの形成 ~農業DX2.0の概念とSelf-as-We思想の交錯~
はじめに
フランスの医師・重農主義の経済学者であったフランソワ・ケネー(1694-1774年)は、農業・農村と国家との関係について、「富が農業の大きな原動力であり、よい耕作のためには多くの富が必要だ。農村は国家の真実の富の源泉である。農民貧しければ、王もまた貧しい」と述べた。
このケネーの格言を現代風に読み替えれば、「農村は国家・地域の基盤であり、農業の持続可能性や発展のためには、農業そのものをきちんと稼げるビジネスにする必要がある」ということになるのではないだろうか。
他方、我が国における農業に目を転じると、高齢化や担い手不足、就農人口の減少、農業所得の伸び悩み等の諸課題に加え、直近では、いわゆる"農業クワトロショック"(①コロナ禍を発端とした物流危機、②特定国からの大量買い、③異常気象、④ウクライナ紛争)とも相まって、農業ビジネスの持続可能性が危ぶまれている状況にある。農業と農村地域との密接な相互依存関係を踏まえれば、(ケネーも指摘しているように)農業ビジネスの衰退は、国家・(農村)地域の基盤(農村の地域OS[1])の低下をもたらすとともに、我が国における食料安全保障に対しても深刻なダメージを及ぼすであろう。
周知のとおり、現代の農業が抱えるこのような諸課題の解決策の一つとして、通信ネットワークやデータ、ITを活用した「農業DX/デジタル農業」(以下、「農業DX」)が促進されていたものの、その普及は道半ばであるとともに、当該諸課題を抜本的に解決するまでには至っていないものと思われる。
そこで本稿では、(筆者なりの私見から)従来の農業DX(以下、「農業DX1.0」)の限界理由を考察しつつ、将来的な農業ビジネスや、農村の地域OSの発展に資する真の意味での農業DX(以下、「農業DX2.0」)とはどのようなものなのかを提示し、最後に、農村DX2.0の実現に向けてどのような哲学的思想が必要となるのかについて論じたい。
農業DX1.0から同2.0へ
本節では、農業DX1.0のエッセンスを振り返りつつ、新たな農業DX2.0の概念について述べる。
従来の農業DX1.0では、通信ネットワーク(光回線、5G等)や、データ、ITを活用しながら、農作業の見える化や、省力化・省人化、栽培支援などのソリューションが提供されてきた。換言すれば、農業DX1.0は、(いくつかの例外はあるものの)通信ネットワークやIT等のツール提供による農作業のプロセス改善に主眼が置かれ、またその範囲も農業バリューチェーンの内部に閉じたものであったといえる。総じていえば、農業DX1.0は、農作業を支援するようなツールの提供が中心のプロセス改善型のDXであるといえよう。加えて、DX商材・サービスの提供にあたっては、農作業の費用対効果という極めて狭い範囲で訴求されるケースが多い。
このように、農業DX1.0は農業バリューチェーン内部でのツール提供の側面が大きく、したがって、ツールの導入・運用コスト対導入効果という思考に陥る傾向が高いため、導入コストが導入効果を上回っている限り普及・拡大はしないし、仮にそれが普及・拡大したとしてもその波及範囲は農業のバリューチェーンの内部に限定されてしまうという限界が内包されているように思われる。
他方、本稿で提示する農業DX2.0は、(農業DX1.0とは異なり)通信ネットワークやITを単なる農作業のプロセス改善のツールとして捉えず、また農業以外の多様な業界との接触や、それによる産業クラスターの形成、農村全体のデジタル化を通じた農村社会・住民のwell-beingの向上というより広い観点からのDXであり、すなわち、農業DXをフックとした農村地域の基盤形成(農村地域のOS形成)といえる。農業DXを起点に農村地域をスマート化するということであるから、農業DXを起点としたスマート農村地域の実現ともいえ、まさに地に足のついたスマート・シティの一環として捉えられる(表1)。
このような農業DX2.0の概念を実際に実行しているのが、NTTアグリテクノロジー社である。同社は「農業を起点とした街づくり」をスローガンに掲げ、最先端のICT環境が整備された自らのファームで次世代施設園芸に農業生産法人として参入しつつ、農業×ICTを起点にさまざまな周辺産業を集積させる農業エコシティの形成や、豊かな街づくりを展開している(図1)[2]。
同社の取り組みは、農業DXをツール的なもの、また、農業バリューチェーンの内部に閉じたものとするのではなく、NTTグループ企業が保有するアセットと、さまざまな業界パートナーとのコラボレーションを通して、農村をはじめとする地域社会そのものを豊かにしていくという発想によるものであり、まさに農業DXを起点とした農村地域のOSの形成だといえよう。
将来的な農村の在り方においては、農林水産省「新しい農村政策の在り方に関する検討会、長期的な土地利用の在り方に関する検討会」(令和4年4月とりまとめ)において、多様な主体が参画し、地域資源を活用して新たな事業を創出する「農山漁村発イノベーション」の推進が提唱されている(図2)。
これは、従来の農業の6次産業化に加え、農山漁村の活用可能な地域資源を発掘し、それを磨き上げたうえで、他分野と組み合わせて新しい事業を創出するというものである。この方針も、農業業界の内部に閉じることなく、農業がさまざまな事業主体や事業分野とコラボレーションしながら農村における新たな事業を創出するというものであり、本稿が提唱する農業DX2.0の一つであるといえる。現在、食料・農業・農村基本法の見直しに向けた検討がすすめられているが、法改正に向けては、農業DX2.0の視点が反映されることを大いに期待したいところである。
ここまで、農業DX2.0の概念を述べてきたが、そのポイントを2点に整理すれば、(1)農業のバリューチェーンの内部に閉じずに、さまざまな業界プレイヤーとのコラボレーションが必要であり、(2)通信ネットワークやITを単なる農業プロセス改善のツールとして捉えるのではなく、農業DXを起点とした農村地域の活性化や住民のwell-being増進(農業DXを起点とした農村の地域OSの再形成)という観点から捉えるということである。
農業DX2.0を支える哲学思想:Self-as-We
ここまで、農業DX2.0の概念と、それに向けた主な動向について展望してきたが、最後に、農業DX2.0に向けて必要となる思想・哲学について私見を述べておきたい。
近時、農業DXに限らずさまざまな業界においてDXが提唱されると同時に、「AI等のITが人類の仕事を代替する」、「人類と機械との競争」などの論調が、とりわけ西洋諸国において、高まっているように思われる。このような考え方は、人類や社会経済と、テクノロジーとが対立するという思想であり、いわば「2元論(2項対立)」の議論ではないだろうか。世界的なベストセラーであるユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来』をはじめ、世界各国におけるIT関連の政策報告書においても、そのような2項対立を前提とした政策提言が散見される。
しかしながら、筆者は、農業DX2.0の実現に向けては農村をはじめとする地域の社会経済に、地域の住民やIT等のさまざまなテクノロジーがナチュラルに溶け込むことが重要だと考えている。つまり、人類とITとを矛盾する概念で捉えたり、2元論として捉えたりするのではなく、テクノロジーが自然な形で地域に溶け込むという「人類・地域とITとの自己同一」という思想・哲学が必要であると考えている。これは、京都学派の創始者である西田幾多郎が唱えた「純粋経験」(≒テクノロジーと人類・地域社会との自然調和)であり、「絶対矛盾的自己同一」(≒テクノロジー対人類・地域社会という2元論の否定)の思想に拠り所を見いだせよう[3]。
ここまで、AI等のテクノロジーと人類・地域社会との自然調和について述べたが、その実現に向けては、われわれ自身の主体(自己)の考え方もアップデートしていく必要がある。というのは、「自己=私」という自己観である限り、自己(私)対テクノロジーという2元論を脱却することは不可能であるからだ。
具体的には、われわれ自身の自己観を「私ファースト」から「われわれファースト」へ変革していくことが重要である。ここでいう“われわれ”とは自己(私)に加え、他者やテクノロジー、さらには地域の自然環境など、地域OSに関連するすべてのプレイヤーやテクノロジーをも包含した概念であり、自己(私)を「われわれ」の部分集合として捉えるものである。一言でいえば「自己中心主義」からの脱却である。このような「われわれファースト」の思想を“Self-as-We”として提唱しているのが、京都大学の出口教授の「われわれとしての自己」である[4]。
農業DX2.0の実現に向けては、われわれ自身の考えも、「私中心主義」から「われわれ中心主義」へアップデートし、自己観を農村地域における住民やテクノロジー、自然などを含めたなかでの部分集合として捉えつつ、農業・農村対テクノロジーという2元論から脱却していくという思想が求められるのではないだろうか。
[1] 本稿では、農業を基盤とした農村の社会経済の総称を「農村の地域OS」と称す。
[2] 詳細は、テレコミュニケーション編集部編『一次産業の課題解決へ 地域IoT』(リックテレコム、2020)を参照されたい。
[3] 西田幾多郎の哲学についての見通しのよい解説としては、小坂国継『西田幾郎の思想』(講談社、2002)が包括的である。
[4] 「われわれとしての自己」については、村田・渡邊・出口(2020)「新型コロナウイルス感染拡大下における抑うつ傾向と『われわれとしての自己』との関係」、『京都大学文学部哲学研究室紀要』20:15-33等を参照されたい。
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