2024.6.13 InfoCom T&S World Trend Report

世界の街角から:「シェンゲン協定」由来の地 ~ルクセンブルク・シェンゲン~

【図1】シェンゲンと周辺地域地図 (出典:https://mapswire.com/maps/europe/)

ヨーロッパを旅行されたことのある方なら、たびたび「シェンゲン」という言葉をお聞きになったことがあるのではないだろうか。「シェンゲンエリア」「シェンゲンフライト」……。このように「シェンゲン」が使われるのは、教科書にも登場する「シェンゲン協定」にちなんだものだ。シェンゲンはルクセンブルクの南東部に位置し、モーゼル川をはさんでドイツ、陸続きでフランスと接している土地の名前である(図1)。締結国間の「人の移動の自由」の実現に向け、共通の国境を段階的に撤廃することに合意したシェンゲン協定は、1985年にシェンゲン付近のモーゼル川の上で調印された。これがシェンゲンの名を国際的に有名にしているが、実際に訪れてみると、ブドウ畑に囲まれたのどかな場所である。今回は、シェンゲン協定をめぐる歴史を振り返りつつ、シェンゲン瞥見記をお届けしたい。

「人の移動の自由」の実現に向けたシェンゲン協定

シェンゲンの名を有名にしている「シェンゲン協定」の歴史は、1985年にさかのぼる。1985年6月、シェンゲン付近のモーゼル川に停泊していた船上で、ベルギー、フランス、西ドイツ、ルクセンブルク、オランダの5カ国によって、「政府間の、共通の国境における国境検問の段階的廃止に関する合意」への調印がなされた。そして、その5年後となる1990年には、シェンゲン協定の「施行協定」が締結された(「第2次シェンゲン協定」とも呼ばれる)。これらにより、加盟国の間での国境管理を撤廃し、加盟国外からの入国に関しても共通の入国審査制度を構築することが具体的に可能になった。この制度の対象となるのは加盟国の国民だけでなく、それ以外の人も含まれることが特徴的だ。これにより、外国人(筆者のような旅行者も含む)も、国境管理の対象となることなく、加盟国間を自由に移動することができるわけである。出入国管理は、例えば移民・難民問題との関連でも、各国の主権に関わる難しい問題だが、そういった問題への対処も含めて、共同で対処するものといえる。このような背景もあり、シェンゲン協定は当初、当時のECの取り組みとは別のものとして締結された。しかし、1997年にはシェンゲン協定をEUの制度に統合する「アムステルダム条約」が締結され、「人の移動の自由」に関する政策はEUのものなった[1]。各国の政策や、EUの拡大に伴う新規加盟国に関連した例外的な対応はあるものの、シェンゲン協定加盟国は増えており、最近では2024年3月31日にブルガリアとルーマニアが参加し、空路と海路に限り、シェンゲン協定加盟国との出入国管理が廃止された(陸路の出入国管理の廃止時期は今後協議)。これにより、シェンゲン協定加盟国数は29カ国となった。なお、シェンゲン協定加盟国とEU加盟国は同一ではなく、EU加盟国ではないもののシェンゲン協定に加盟している国(アイスランド、ノルウェー、スイス、リヒテンシュタイン)、EU加盟国だがシェンゲン協定には加盟していない国(アイルランド、キプロス)が存在する。

シェンゲンを歩く

【写真1】ブドウ畑が見える

【写真1】ブドウ畑が見える
(出典:文中掲載の写真はすべて筆者撮影)

シェンゲンには、公共交通なら、ルクセンブルク市(中央駅)からバスに乗れば35分程度で到達することができる。人口は約5,200人(2024年)[2]。バスから降り立つと、すぐにブドウ畑が見える(写真1)。モーゼル川の方に下りていくと、河岸にはシェンゲン協定調印を記念するモニュメントが見えてくる(写真2)。モーゼル川にかかる橋の向こうはドイツである。橋の上には国境を示す看板があるが、ただそれだけで国境を示す線はなく、車が高速で行き来している。歩道もあり、徒歩で簡単に国境を行き来することができる(写真3、4)。ヨーロッパを旅行していれば当たり前のことだが、その「当たり前」を実現させたのがこの地で調印されたシェンゲン協定であること、そして、川の向こうが戦争の「敵国」という時代もあったことを思うと、ある種の感慨がある。

【写真2】モニュメント

【写真2】モニュメント

 

【写真3】向こうはドイツ

【写真3】向こうはドイツ

【写真4】ルクセンブルクに戻る

【写真4】ルクセンブルクに戻る

川沿いをもう少し進むと、ヨーロッパセンター(Centre Européen)の建物が見えてくる。ここには「European Museum」がある。これは「シェンゲン協定の歴史と意義を紹介する専門博物館」とされており、国境管理廃止の歴史についての展示がなされている。建物の前にも、シェンゲン協定加盟国を星で示したモニュメントや、「ベルリンの壁」の一部分が展示されており、ヨーロッパの歴史について思い返すきっかけとなっている。ちなみに、シェンゲン村(Village of Schengen)は、2017年に「ヨーロッパ遺産」にも指定されている[3]

日本への輸出量は決して多くないが、ルクセンブルクのモーゼル川沿いはワインの名産地である(写真5)。ルクセンブルクのワイン生産の歴史は2000年を超えるとされており、政府がブドウ畑を持ち、認証制度を整備するなど、ワイン生産に力を入れている。国民1人当たりのワイン消費量も多い。モーゼル川沿いを南北に走る道路は「ワイン街道」と呼ばれ、街道に沿った急斜面の畑でワイン用のブドウが栽培されている(写真6)。モーゼルワインといえばドイツが有名だが、ルクセンブルクのワイン生産地はモーゼル川上流地域にあり、ドイツの生産地と川を挟んで対岸にあたる。急斜面が多いことから機械化が困難で、大規模生産には向かないが、地形や地質、製法の違いもあってか、ドイツのモーゼルワインとは異なる個性的なワインが産出されている。スティル・ワインでは単一品種のワインが基本となっており、「リースリング」のようなドイツ、フランス(アルザス)と共通の品種が使用されることもあるが、他の地域ではブレンドで補助的に使われることが多い品種である「オーセロワ」単一で作られるワインが特徴的である[4]。すっきりとした味わいと華やかさを併せ持っており、食事にもよく合う(写真7)。また、シャンパーニュと同じ製法で作られるスパークリングワイン「クレマン・ド・ルクセンブルク」も楽しむことができる。

【写真5】ブドウのマークに出迎えられる

【写真5】ブドウのマークに出迎えられる

【写真6】斜面のブドウ畑とワイン街道

【写真6】斜面のブドウ畑とワイン街道

【写真7】モーゼル川を見下ろす「オーセロワ」のワイン畑

【写真7】モーゼル川を見下ろす「オーセロワ」のワイン畑

シェンゲンでも、モーゼルの他地域同様、質の高いワインが造られている。ワイナリーを目指して河岸の街から坂を上ると、さまざまな品種のブドウが栽培されているのを見ることができる。シェンゲンには、ルクセンブルクだけでなく、フランスやドイツにもブドウ畑を持つワイナリーもある。シェンゲン協定がこのような経営を可能にしているともいえるだろう。

ルクセンブルクの公共交通

【写真8】無料で乗れるトラム

【写真8】無料で乗れるトラム

ルクセンブルクには、もう一つ驚かされるものがある。公共交通の仕組みである。バス、トラム、ケーブルカー、そして鉄道まで、すべて無料で乗車できるのだ(鉄道の1等車のみ有料)。ルクセンブルク市内での移動はもちろん、空港から市内への移動のバスも、中央駅からシェンゲンまでの30分以上のバスも、国内の鉄道(2等車)も無料なのである(写真8)。

この仕組み、使ってみるとありがたさを実感する。費用の節約だけではない。旅行時の悩ましい課題の一つである「公共交通の料金の仕組みを理解し、不正乗車にならないように、かつ払いすぎないように乗る」という桎梏(言い過ぎか)から自由になれるので、非常にストレスが少ないのだ。他の都市では、切符・交通カードの入手(デジタルでの入手も含め)やバリデーション、乗り換えの時のやり方、有効期限の管理など、正しく利用するためのハードルは多い。デジタル化にも罠がある。いざという時に限ってQRコードが読み込まれなかったり、コンタクトレスの決済がスムーズに進まなかったり……もちろん地元の人々はうまくやっているのだから、こちらの知識や言語力の問題なのだが、とにかく慣れない旅行者にとってストレスであることは間違いない。それがなく、ただ乗って降りればよいというのは、非常に楽である。また、料金収受がないので、バスやトラムの乗り降りがスムーズに進むという利点もある。もちろん、自家用車による環境負荷を減らす効果も期待できる。どこでもできることだとは思わないが、日本でもインバウンド(訪日外国人旅行)が話題になっている中で、観光産業の振興を考える上でも、非常に興味深い仕組みだと感じた。

今回、シェンゲン協定の歴史の現場を訪れ、「人の移動の自由」について改めて考える機会を得た。EUの基本理念として「人・物・資本・サービス」の「4つの自由」があるとされるが、EUではデータに関する戦略も推進しており、2020年2月に発表された「欧州データ戦略」、2024年1月に発効されたデータ法など、さまざまな形で「データの単一市場」も実現しようとしている。

ルクセンブルクには、IT先進国といわれるエストニアの「データ大使館」が置かれており、ルクセンブルクでデータセンターやネットワークサービスを提供するLuxconnectのTier4データセンター[5]エストニアの政府情報(一例として登記簿など)がバックアップされていることも知られている。「データ大使館」と呼ばれるのは、単なるデータバックアップだけではなく、2017年に締結された二国間協定により、データがルクセンブルク国内にありながら、不可侵などにおいて物理的な大使館と同様の権利を持つとされているためである。2021年にはモナコもルクセンブルクに「データ大使館」を設置した[6]。人・物・資本・サービスと同様、データの移動や管理においても、新たな枠組みが作られている。もちろんEU加盟国間だけでなく、日本や米国などを含む域外との関係も問題となる。今後のEUやルクセンブルクのデータ戦略に注目したい。そして、シェンゲンの豊かな自然とおいしいワインを楽しみに、再訪できればと願っている。

※ 記載の現地情報は訪問当時(2024/4)の筆者の体験によるものです。ご旅行される場合は、最新の情報をご確認ください。

[1] 加藤眞吾「人の自由移動政策─労働移民と国境管理─」『拡大EU―機構・政策・課題―総合調査報告書―』(国立国会図書館調査及び立法考査局、国立国会図書館デジタルコレクション),2007, pp.130-133.

[2] Data.public.lu, “Registre national des personnes physiques RNPP : Population par localité - Population per locality,” https://data.public.lu/fr/datasets/registre-national-des-personnes-physiques-rnpp-population-par-localite-population-per-locality/

[3] EC, “European Heritage Label sites,” https://culture.ec.europa.eu/cultural-heritage/initiatives-and-success-stories/european-heritage-label

[4] 今野優子「ルクセンブルクワインに魅せられて」田原憲和・木戸沙織(編著)『ルクセンブルクを知るための50章』(明石書店)2018.

[5] データセンターの品質や設備の格付け。Tier4が最高とされている。

[6] Luxembourg, “E-embassies in Luxembourg,” https://luxembourg.public.lu/en/invest/innovation/e-embassies-in-luxembourg.html e-Estonia,”Data Embassy,” https://e-estonia.com/solutions/e-governance/data-embassy/

※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。

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