2022年3月15日掲載 InfoCom T&S World Trend Report

世界の街角から:杉原千畝を訪ねて ~バルト三国の旅 リトアニア編~



バルト三国とは、バルト海に面し、ヨーロッパ大陸の北部、フィンランドの南に位置するリトアニア、ラトビア、エストニアの3カ国で、よくまとめて呼ばれるが元々は歴史的にもそれぞれ異なる民族、歴史、文化を持つ国々である。またその地理的位置から、欧州とロシア(旧ソ連)の思惑により翻弄された国々でもある(図1)。

【地図1】バルト三国

【地図1】バルト三国
(出典:Google Map)

歴史的にエストニア、ラトビアはスウェーデンやドイツの影響を強く受け、一番南に位置するリトアニアは隣接するポーランドの影響を強く受けていたが、3カ国とも18世紀にロシア帝国の支配下となり、1918年、ロシア革命後に独立を果たす。しかし第二次世界大戦中はドイツとソ連による支配が続き、1940年に旧ソ連に併合される。1991年1月リトアニアで起きたソ連軍との衝突「血の日曜日事件」を経て、ソ連の「8月クーデター」の後、8月20日にようやく3カ国揃って再独立を果たし、旧ソ連崩壊に大きな影響を与えた。

【図2】移動ルート

【図2】移動ルート
(出典:Google Map)

現在の国の形としては新しい国々であるが、それぞれに独自の長い歴史を持ち、美しい東欧の街並みが魅力的な国々である。中でもリトアニアは、東洋のシンドラーと呼ばれ、命のビザを発給した杉原千畝の影響もあり、日本人に最も認知されている国ではないだろうか。バルト三国の旅、まずはそのリトアニアからご紹介したい。空港でレンタカーを借りて出発! 陸続きの欧州では国を超えて乗り捨て利用できるので便利。地図のようなルートで、車と長距離バスを使って三国を周った(図2)。

ちなみに、リトアニアに行きたい理由はもう一つあった。よろしければ本誌2020年10月号「コインの行方」もぜひご一読を。

ビルニュス

リトアニアの首都。旧市街は欧州最大規模で、1994年ビルニュス歴史地区として世界遺産に登録されている。東西欧州の接点として、様々な人種が住んでいたことから「カトリックと異文化の十字路」と呼ばれ、街中にはルネサンス、バロック、ゴシック等様々な様式の歴史的建造物が残り、中世の面影が強く感じられる。迷路のように入り組んだ街中には、かわいい雑貨屋さんや、カフェも多く、街並みを見て周るだけでも一日楽しめる(写真1-4)。

【写真1】街の風景

【写真1】街の風景
(出典:文中掲載の写真はすべて筆者撮影)

左【写真2】カフェ、右上【写真3】雑貨屋、右下【写真4】かわいい陶器

ビルニュス大聖堂

まずは街の中心にあるビルニュス大聖堂へ。真っ白な外観も美しい大聖堂は、13世紀に建てられたもの。その後、15世紀にはゴシック、16世紀にはルネサンス、17世紀にはバロックと時代ごとに増改築が繰り返され、18世紀に6本の円柱が特徴的な新古典様式となり、現在までその姿をとどめている。

大聖堂の前に立つ鐘楼も美しい。高さ53mの大きな塔は2層から成り、下層の円柱部分は13世紀の城壁の一部で、その上に八角形の塔が3つ、16世紀に建造され今の姿となった(写真5)。

【写真5】ビルニュス大聖堂

【写真5】ビルニュス大聖堂

大聖堂の内部、聖カジミエル礼拝堂は大理石で造られたバロック様式で、漆喰の装飾やフレスコ画が美しい。リトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子の棺も安置されており、この棺は120年後に開けられたが、遺体に全く変化がなくそのままの姿で眠っているようだったという伝説でも有名(写真6、7)。

【写真6】聖カジミエル礼拝堂

【写真6】聖カジミエル礼拝堂

【写真7】聖壇

【写真7】聖壇

ゲディミナス城

ビルニュスは名前の由来であるビリニャ川とネリス川の合流点にあるゲディミナスの丘を中心として広がった街で、城はその丘に位置する。14世紀に木造の要塞として築かれたが、火災に遭いレンガで再建された。残念なことに19世紀ロシア軍の攻撃により、城の大部分が破壊され、現在残っているのは監視塔であるゲディミナス塔と一部の城壁のみとなっている(写真8)。

【写真8】ゲディミナス塔

【写真8】ゲディミナス塔

丘の上にある塔にはケーブルカーで登ることができ、頂上からは赤茶色の街並みが美しいビリニュスの旧市街が一望できる(写真9)。

【写真9】塔からの眺め

【写真9】塔からの眺め

ビリニュス大学

旧市街の中で一番大きな建物がビリニュス大学である。中欧で最も古い歴史を持つ大学の一つで、宗教改革に対応したイエズス会が設立した学校を大学に変更したもの(写真10)。

【写真10】ビリニュス大学

【写真10】ビリニュス大学

400年以上の歴史を持つ大学であるが、帝政ロシア時代には抵抗運動の本拠地となり、88年間閉鎖されたこともあったそうだ。現在の美しいキャンパスと穏やかな雰囲気からは想像できないが、リトアニアの激動の歴史の中心にあった建物であったと言えるのだろう。

構内には天体観測所や聖ヨハネ聖堂などがあるが、見学できるのは一部となっており、中でも講堂の2階にあるフレスコ画がみどころとなっている。「四季」というこのフレスコ画は、ビリニュスがキリスト教化される以前、自然崇拝時代の生活を描いたもの。保存状態も素晴らしく、繊細な描写を間近で見ることができる(写真11)。

【写真11】フレスコ画「四季」 

【写真11】フレスコ画「四季」

夜明けの門

【写真12】夜明けの門

【写真12】夜明けの門

旧市街は城壁で囲まれ5つの門があったが、夜明けの門は唯一現存する門。17世紀に外敵から街を守り、旅人の安全を祈るために、城門の上に礼拝堂が造られた。礼拝堂の中には、奇跡を起こすと言われる聖母マリアのイコンがあり、現在も人々の信仰を集めている。門を通るときに下から礼拝堂に向かい祈りを捧げて通る人の姿が見られ、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世もビリニュスを訪れたときにここで祈りを捧げている。聖母マリアのイコンはクリミア半島から遠征時に持ち帰った、当時の絶世の美女と呼ばれた王妃をモデルにしたなど諸説あるが、とても美しく不思議な魅力があり、確かに奇跡が起こせそうな気さえする(写真12、13)。

【写真13】聖母マリアのイコン

【写真13】聖母マリアのイコン

聖アンナ教会

旧市街には数多くの教会があるが、中でも特に美しくゴシック建築の傑作と言われるのが聖アンナ教会。15世紀末に建てられたもので、全体が33種類の形の異なる赤レンガで覆われ、半曲線の屋根、八角形の塔、出窓など、繊細な細工が美しい外観となっている(写真14)。

【写真14】聖アンナ教会全景(左)、正面(右)

【写真14】聖アンナ教会全景(左)、正面(右)

その美しさは、ナポレオンをも魅了し、ロシア遠征の途中にビルニュスに立ち寄った折に「我が手におさめてパリに持ち帰りたい」と言ったとか。破壊と再建が繰り返されたビルニュスの長い歴史の中で、500年以上も当時のままの美しい姿をとどめている貴重な建物で、ぜひお薦めしたい必見の教会である。

ビルニュスは治安もいいので、美味しいリトアニア料理とワインを楽しんだら、夜の街散歩へ。広場にはたくさんの人が集まり、にぎやかに食事をしながら、短い夏の夜を楽しんでいる。昼間見た教会もライトアップされた姿はまた違った趣で美しい。たくさん歩いて満喫し、今夜のホテルへ。写真15-17)。

左上【写真15】夜の広場、左下【写真16】夜の聖アンナ教会、右【写真17】夜の街角

トラカイ

翌日は街を出て、まず車で30分程のトラカイへ。トラカイはリトアニアの古都で、街にはたくさんの湖があり、夏の避暑地として人気の場所。トラカイ城は、ガルヴェ湖に浮かぶ島に建てられた城で、レンガ造りの見た目が可愛らしく、おとぎの国のお城のよう。島には木の桟橋を渡って入り、城内は3階建てで現在は博物館になっている。中に入るよりも、湖畔から見るお城が美しいのでのんびり散歩しながら眺めるのがお薦め。湖畔にはカフェもあり、ヨットやカヌー、グライダー等、様々なアクティビティも楽しめる(写真18-20)。

【写真18】トラカイ城

【写真18】トラカイ城

【写真19】城へつながる桟橋

【写真19】城へつながる桟橋

【写真20】城壁

【写真20】城壁

ここから車で約1時間。いよいよ今回一番行ってみたかったカウナスへ。

カウナス

カウナスはリトアニア第2の都市で、ソ連による併合以前は首都であった場所。リトアニアのほぼ中央にあり、街の中心部は歴史的な建物が並び、19世紀にはロシアとドイツを結ぶ鉄道も通り、古くから工業が発展し、現代でもリトアニアの産業の中心地である。また、1940年当時在カウナス日本領事館が置かれ、杉原千畝が命のビザを発行した場所としても有名。

杉原千畝記念館

1933年ヒトラーが声明を出した「ユダヤ人排斥運動」によるホロ・コーストにより、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキアからポーランド国境を越えて、多くのユダヤ人難民がポーランド北東部のビルニュス周辺に避難していた。リトアニアは1939年ソ連との間で「ビルニュス返還協定」を締結しており、長年ポーランドに領有されていたビルニュス周辺がソ連からリトアニアに戻ってきたことを機に、多くのユダヤ人がリトアニアに逃げ込んだとされている。1939年、ちょうどその頃、在カウナス日本領事館領事代理となったのが杉原千畝だった。

既に欧州にユダヤ人の安住の地はなく、シベリアを経由して第三国に逃れるために必要だったのが日本通過ビザだった。1940年7月、多くのユダヤ人が日本領事館にビザを求めて押しかけ、千畝は本省にビザの発給許可を求めたが認められず、自身の判断で命の危機が迫るユダヤ人のために、リトアニアを離れる瞬間までビザを発給した。その数は1カ月間で2,139通に上る(年号、数値は杉原千畝記念館HPのものを抜粋)。

旧カウナス日本領事館は現在、杉原千畝記念館として公開されており、長年ぜひ訪れてみたいと思っていた場所であった。ナビに住所を入れ、無事にたどり着いたはずだったが、辺りは何もない普通の住宅街で、記念館の看板一つ見当たらない。車を止め、歩いて周辺を探し回り、ようやく門柱に看板がある家を発見(写真21)。

【写真21】記念館全景(左)、看板(右)

【写真21】記念館全景(左)、看板(右)

なんとかたどり着いたのだが、10時から開くはずの記念館は閉まったままで人の気配もない。呼び鈴を押してみても返答なし。何度も調べてみたが今日は休館日ではないはず。やっとリトアニアに来て、カウナスまで来て、記念館にたどり着いたのにやっていない??? と途方に暮れていたところ、ポストの横に小さな張り紙を発見。用がある人はここに電話しろと番号が書いてある。さっそく電話してみたところ、何度かかけてやっとつながり、「今、記念館に来ているが今日は休みなのか?」と聞くと、「Sorry! 寝坊したので今から行くよ」と。なんとも日本では考えられない話だが、とにかく開けてくれるのを待つしかなく、待つことさらに40分。やっと中に入ることができた。

千畝の執務室が見学できるのと、当時の世界情勢等のパネル展示に、彼の生涯をまとめた映像を見ることができる(日本語版もあり)。小さな記念館ではあるが、まさにこんな小さくて、恐らくよく知らない国である日本の領事館に、何千人ものユダヤ人が命をかけてビザを求めてやってきたということを想像し、その状況を何度も必死で訴えても判断しない日本政府との狭間で苦しみながら、最後は自分の信念を通した杉原千畝という人の思いを少し感じられたような気がした(写真22-25)。

【写真22】千畝の執務室

【写真22】千畝の執務室

【写真23】ビザを発給したデスク

【写真23】ビザを発給したデスク

【写真24】手書きのビザ

【写真24】手書きのビザ

【写真25】外務省からの発給不許可の手紙

【写真25】外務省からの発給不許可の手紙

カウナス第九城塞

カウナスにはもう一カ所行ってみたい場所があった。行ってみたいというより、行って見なければならない場所という思いの方が近いかもしれない。この施設を見ると、当時のユダヤ人がどのような状況下に置かれ、最後の望みをかけて日本領事館に押し掛けたのかがよく理解できる。

カウナス第九城塞は、元々ロシア帝国がカウナスを囲む8つの城塞を建設していたが、西欧諸国の軍事力強化に対抗するため、9番目の城塞として1913年建設したもの。リトアニア独立後は労働収容所として、ソ連やナチスドイツの侵攻期には強制収容所として使用され、ユダヤ人、リトアニア人ともに大量虐殺された場所である。

博物館には小さな礼拝堂があり、その奥に様々な資料が展示されている(写真26-28)。目を背けたくなるようなものもあり、戦争の恐ろしさと狂気を改めて感じる。収容施設にも入ることができ、内部は迷路のよう。暗い地下牢は見るだけで寒気を覚えた(写真29、30)。

【写真26】博物館入り口

【写真26】博物館入り口

【写真27】入り口に小さな礼拝堂があり、 その先に展示物が並ぶ

【写真27】入り口に小さな礼拝堂があり、その先に展示物が並ぶ

【写真28】礼拝堂のステンドグラス

【写真28】礼拝堂のステンドグラス

【写真29】収容所内部

【写真29】収容所内部

【写真30】杉原千畝の展示室

【写真30】杉原千畝の展示室

外に出ると明るい陽射しが感じられほっとしたが、当時その道はRoad to Deathと言われていた道。先にある無数の銃弾の痕が今も残る壁面での銃殺や、アウシュビッツより先に実験が行われたとされているガス室に続いており、5万人以上の人が虐殺された歴史を持つ(写真31、32)。巨大な木製の追悼碑は人々の苦しみ、怒りを表しており、後世の我々に訴えかけているようだった(写真33)。

【写真31】収容所外観、銃撃の壁

【写真31】収容所外観、銃撃の壁

【写真32】銃撃の壁

【写真32】銃撃の壁

【写真33】追悼モニュメント

【写真33】追悼モニュメント

十字架の丘

様々な思いを抱きつつも、次の目的地へ。カウナスから車で約1時間、シャウレイの街からさらに北に12kmほどの場所になんとも不思議な光景が広がる「シャウレイ十字架の丘」がある。丘一面に凄まじい数の十字架が並ぶ。並ぶというような状態ではなく、隙間なく突き刺さっているという感じ。数世紀かけて巡礼者が立てていったもので、その起源は1831年ロシア帝国への11月蜂起と言われているが、十字架が一気に増えたのは1990年代、ソ連の統治への非暴力での抵抗を示すためだったそうだ。その後はキリスト教への信仰心だけでなく、亡くなった人の慰霊、将来への願い事等、様々な思いを込めて十字架が立てられ、現在では20万本以上になっている(写真34)。

2001年には「リトアニアの十字架の手工芸とその象徴」の一つとして、世界無形文化遺産に登録されている。

この土地は誰の所有でもないとされており、誰でも自由に十字架を立てることができる。丘の近くには売店もあり、そこで小さな十字架から大きな十字架まで販売しているので、観光客でも十字架を立てることが可能。

私もこの旅で知ったリトアニアの長く苦しい歴史を思い、この美しい国がこれからも平和でその姿を留めますように、そしていつかまた私もこの地に戻ってこられますようにと思いを込めて、小さな十字架を立ててきた。

皆の思いと願いが叶いますように。。。

【写真34】十字架の丘

【写真34】十字架の丘

旅はラトビア、エストニアへと続く。次回もお楽しみに!

会員限定レポートの閲覧や、InfoComニューズレターの最新のレポート等を受け取れます。

ICR|株式会社情報通信総合研究所 情報通信総合研究所は情報通信のシンクタンクです。
ページの先頭へ戻る
FOLLOW US
FacebookTwitterRSS