食糧の安全保障とスマート農業 ~オランダの取り組み事例から考える
1.はじめに
国連人口基金が2022年3月に発表した「世界人口白書2022」によると、世界の人口は今や79億5,400万人で、昨年に比べて7,900万人増加した。一方、自然環境においても、地球温暖化が依然としてその勢いを維持し、異常気象が頻発している。こうした地球規模の変化により、人類社会は大きな変革期を迎えていると考えられ、さまざまな課題が浮き彫りになっている。また、直近では、世界的に大流行した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)や不安定な国際情勢により、グローバライゼーションの歩みが減速され、世界規模のサプライチェーンの寸断が拡大している。その影響により、企業の生産活動の停滞や物価の上昇などが頻発し、我々の生活環境は大きく変化している。
こうした時代背景の下、各国は安定的な食糧供給を持続させるために、自国の農作物の生産性を向上させ、食糧の自給率を高めようとさまざまな取り組みを実施している。特に先進的なテクノロジーを活用した「スマート農業」は生産性を飛躍的に向上させ、より効率的な農業を実現することが可能なことから、近年大きな注目を集めている。
本稿では、食糧危機に関する世界および日本の現状に言及しつつ、スマート農業先進国ともいえるオランダの取り組み事例を紹介し、これからの日本のスマート農業について考察する。
2.世界の食糧危機
(1)食糧安全保障
人類社会の存続、持続可能な経済発展を維持するためにも、人々の生活を根底から支える食糧の安定供給は必要不可欠なものである。ユニセフ(国連児童基金)によると、2021年時点で世界で8億2,800万人が飢餓に直面している。このように、我々を取り囲む複雑な環境の中で、いかに食糧を安定して入手するかは、国家、さらに世界レベルで議論されるべき重要な事項であり、現在食糧安全保障として重要視されている。
また国連の調査によると、今後30年間で、気候変動に対して適切な措置を実施しない場合、地球気温の継続的な上昇、降水パターンの変化、熱波の増加、海面上昇や海氷融解など、より激しい自然災害のリスクが増加するとされており、このような異常気象と自然災害の増加によって、農業が大きなダメージを受け、食糧供給はますます難しくなると予想されている。このような状況に加え、国連食糧農業機関(FAO)によれば、2050年までに約98億を超えるとされる世界人口(図1)を支えるためには、食糧の生産量を少なくとも現在の60%増加させる必要があると予測されている。
一方、グローバル化が進む中、人の流動性が高まると同時に、文化や経済など、あらゆる面における国同士の相互依存度はますます高まってきている。こうした状況もあり、疫病の世界的流行や地政学的に敏感な地域での紛争の勃発は人類社会全体に大きな影響を与えるようになっている。例えば、直近のCOVID-19の大流行やロシアによるウクライナへの軍事侵攻に伴い、サプライチェーンの混乱が世界規模で発生し、世界各国で原油や材料・部品だけでなく、食糧調達も困難な局面を迎えている。
(2)食糧危機への対策
こうした食糧危機を解決するには、気候変動対策や紛争解決のほか、強靭な食糧システムの構築も必要不可欠である。例えば世界銀行の公開情報によると、食糧危機を解決するには4つの優先課題がある。第1に、食糧貿易を途絶えさせないこと。各国は食糧・農業市場を閉鎖せず、また輸出に対する不当な制約を課させないように注意する必要がある。第2に、セーフティネットを整備して消費者と脆弱世帯を支援すること。消費者への打撃を和らげるための社会的保護プログラムの維持・拡大が不可欠であり、最脆弱世帯への支援を最優先すべきである。第3に、肥料などの生産コストの増加に苦慮する農家等の食糧生産者への継続的な支援、そして研究開発への投資拡大が求められている。最後に最も重要な点として、食糧と栄養の永続的安全保障を達成できるより強靭な食糧システムへの転換に取り組むべきことが挙げられている。
したがって、長期的には、政府、民間企業、国際パートナーが協力して、気候、紛争、経済のリスクが高まる中でも食糧と栄養の安全保障を確保できるよう、より生産性と資源効率が高い生産システムを実現する必要があると言えよう。
3.日本の現状とスマート農業の取り組み
(1)日本の食糧確保の現状と課題
世界的な食糧安全保障の危機を迎えている中、前述のとおり、各国ではさまざまな取り組みが実施されている。日本も例外ではない。農林水産省が定期的に実施している「食糧の安定供給に係るリスク分析・評価」の令和3年度版では、気候変動や地域紛争のリスクが既に顕在化しつつあるとされている。一方で、農林水産省の別の調査によると、日本の食糧自給率は2020年時点ではカロリーベースで37%となっており、先進国の中でも最低の水準(図2)にあるとされている。
このような食糧安全保障の課題を改善すべく、政府は2030年までに食糧の自給率の大幅な向上を目標に掲げ、達成に向けた取り組みを開始している。その基本的な考え方は、国内の農業生産の増大、輸入穀物等の安定供給の確保とその備蓄の推進の3点である。特に農業生産の増大に関して言えば、「2019年版 農業法人白書」のアンケート調査によると、農業経営上の課題は「労働力」だとの回答が71.5%とトップとなっており、労働力不足を補う今後の対応として、スマート農業による生産性の向上が重要視されている。
(2)スマート農業の取り組み
「スマート農業」とは、農林水産省によれば、「ロボット技術や情報通信技術(ICT)を活用して、省力化・精密化や高品質生産を実現する等を推進している新たな農業のこと」[1]と定義されている。日本においては、「先端技術」を駆使した「スマート農業」を活用することにより、農作業における省力化・軽労化の更なる推進と合わせて、新規就農者の確保や栽培技術力の継承等が期待されている。
昨今の日本の農業分野においては、担い手の減少や高齢化の進行などによる労働力不足が問題視されている中、農業現場では、依然として人手に頼る作業や熟練者でなければできない作業が多く、省力化、人手の確保と作業者の負担の軽減が重要な課題として挙げられている。スマート農業は、農業が抱えてきたこれらの課題を解決できる非常に重要なツールの一つとして期待されている。これまでは、第一次産業である農業は製造業と比べると機械化やデジタル化が困難だと考えられてきたが、最近のデジタル技術の進展・汎用化もあり、農業分野でもデジタル技術の活用が進められるようになってきている。
しかし、スマート農業を推進する取り組みは増えてきてはいるものの、現時点では実証段階のものがまだ多い。また、導入にあたって必要な情報の入手経路が限られ、誰でも入手できるとは限らないこともあり、新たな技術・機器の社会実装、通信やデータを活用し得る環境の整備などを広範囲に進めることが必要である。そのうえ、導入コストやランニング費用などを踏まえると、現在の生産コストと比較して設備投資面では割に合わないとされている。とはいえ、長期的な視点から見れば、スマート農業の実用化は必須であろう。こうした取り組みの参考として、次節では先進的な農業に積極的に取り組んでいるオランダの状況を紹介していきたい。
4.オランダのスマート農業
(1)官民連携イノベーション志向のパートナーシップ
オランダは日本の九州ほどの国土面積に1,706万の人口を抱えている。ライン河下流の低湿地帯に位置し、国土の4分の1は海面下の干拓地で、北海に面する北西部の海岸線では人工的に作られた平坦で肥沃なポルダーと呼ばれる土地が広がっている。農林水産省の調査によると、日本の農業と同様、オランダでも国土面積の小ささ、労働人口減少や高齢化などの課題を抱えているが、限られた農地を有効に活用する観点から、高収量品種の育種や多収技術の開発を行うとともに、農作業の機械化や資材規格の統一等による生産コストの削減にも注力しており、資本・労働集約型の施設園芸や酪農・畜産による高収益農畜産物の生産への特化を進めている。これにより、今や農産物の輸出量は米国に次ぐ世界第2位となっている[2]。
オランダは2000年初期から既に農業の改革に積極的に取り組んでおり、特に施設園芸の分野で大きな成功を収めた。その背景には農業の付加価値向上とイノベーションにフォーカスし、生産と研究開発のクラスタリングを中心とした産官学連携(図3)の仕組みを推し進めたことがあると考えられている。
生産と研究開発のクラスタリングを形成するために、オランダでは農業生産者を大学、農業関連企業や農業ビジネスコンサルティングなどの民営サービスが取り囲む構造を形成し、中央政府が県や市、さらには国境を越えて活動ができるような協力体制を構築してこの連携構造を下支えした。これにより、オランダ国内の各地に農業クラスター(図4)が形成された。
また、政府はこの官民連携の仕組みをリードするため、農業に関する知識イノベーションプログラムの実施を2020年に発表した。具体的には、循環型農業、気候中立農業・生産、耐候性に優れた農村と都市、健康で安全な食、持続可能な北海・海洋・内陸水路と住みやすいデルタ地帯の計6つの主要ミッションを設定したうえ、これらを実現するために、ロボティクス・AI・ビッグデータ等のスマートテクノロジーと、ゲノミクスやフェノタイピング等のバイオテクノロジーを2大キーテクノロジーとして活用するように制定した。
こうしたオランダの官民連携パートナーシップは国内のみにとどまらず、今や欧州をはじめ、さまざまな国の機関や企業とも積極的にパートナーシップを提携している。例えば、オランダのトップセクターの資金提供を受けているワーヘニンゲン大学研究センター(WUR)は、日本の農研機構と提携して、両国間の企業や大学の活発な協業を促している。
次項以降では実際の企業の取り組み事例を通じて、このような官民連携の下で実現されたオランダの先進的なスマート農業の現状を紹介していく。
(2)オランダ式園芸農業
オランダで実用化が進められているスマート農業の中心は施設園芸である。施設園芸とは、本来農作物が生育しにくい場所や季節に、ガラス温室やプラスチックまたはビニルシートで囲ったハウスを設置してその中で、自然環境条件を制御しつつ栽培する園芸のことをいう。オランダのスマート農業は、このような施設園芸において、温室の建造用材料から情報通信まで、さまざまな先進技術を駆使して、外部の環境に影響されることのない安定した人工的な栽培環境を創り出すことで、高効率で安定した農産物の生産を可能にしている。
(3)事例1:優れた環境制御と労務管理システムを実用化したHoogendoorn社
1967年に創業されたHoogendoorn社は、1974年に世界で初めてデジタル園芸用コンピューターを市場に導入したことで知られている。同社は現在、自社独自の温室制御コンピューター「iSii」を中心とした環境制御システムと、農業経営向けの労務システム「Work-IT」を中核商品に事業を展開している(図5)。「iSii」は、温湿度や生育状況を測定するセンサーからの情報をもとに温室内の状態を監視しながら自ら学習し、環境の変化を予測できるため、その結果に従い各種システムを自動制御し、農作物に必要な生育条件を整えられる。例えば、太陽が昇る前に暖房の温度を自動的に下げるなどのように、外部の環境変化に合わせた事前制御も可能である。また、必要な生育条件をユーザー側で設定することもできるため、カスタマイズ栽培を簡単に実現可能だ。このような外部や内部の変化に合わせた農作物生産環境の自動制御は農作物の栽培のみならず、栽培時に必要なエネルギーの利用効率までも最適化することができるため、大きな可能性を秘めていると言えよう。
なお、日本では株式会社浅井農園がミニトマトの栽培に導入しており、その使い勝手の良さにより、導入後は生産量を大幅に増加させるとともに、エネルギー使用量が減り、トマトの品質も格段に向上したとされている。
一方で、「Work-IT」はあらゆる種類の栽培の労務管理に対応しており、労働力や生産性に関するすべての情報を、スマートフォンやタブレットなどの情報端末を通じて登録できる。また、労働者の実績や栽培、収穫作業、生産コストや作物の健康状態に関するデータをリアルタイムで入手可能である。これによって、生産者は農場の運営状況を詳細に把握でき、生産を最適化してコストを削減できる。また、「Work-IT」は従業員のトレーニングや農業関連最新情報の収集にも利用可能で、後継者育成にも活用できる優れものだ。
(4)事例2:農業サービスを軸にパートナーシップを世界中に広げるVan Der Hoeven社
Van Der Hoeven社は1954年に創業したオランダを代表する温室メーカーの一つである。同社は世界各地の気候環境に適応可能な温室環境の統合制御システムを中核にしているが、設計、導入から運営までのすべての段階にわたって顧客と長期的かつ緊密な協力体制を構築することで世界各国でプロジェクト展開を実現している(図6)。
温室関連製品としては、気候や電力供給条件に合わせて生育環境とエネルギーを制御する基本的な温室制御システム以外にも、「HACo」と呼ばれている補助システムがあり、これは特に熱帯の気候に着目して開発された製品である。湿度の高い熱帯気候では、植物の生育を促すために、一定量の湿度を保つ必要があり、空気中の余分な水分を凝縮して排出する必要がある。そのため、熱帯気候における施設園芸の主な課題として、空気から水を凝縮するために非常に多くのエネルギーが必要なことがある。「HACo」は独自の熱循環技術でこの課題を解決し、温室園芸を展開できる気候範囲を大幅に拡大した。また、このほかの製品として、太陽光を活用した独自のソーラー温室「NOVI-SOL」もあり、こちらは温室の屋根にソーラーパネルを結合し、エネルギーの効率的な利用を可能とするものである。
このような製品を軸に、同社は農業サービスを展開しており、特に海外市場への普及に注力している。同業他社と違って、同社は製品の販売や従業員トレーニングサービスの提供のみならず、顧客とパートナーシップを締結することで、初期の構想段階から顧客に関わっており、顧客ニーズに合わせて、施設の設計・施工から管理、運用までに要するすべてのサービスと機材を提供することで長期にわたって事業開発に協力している。同社はこのようなパートナーシップ関係を積極的に世界各地に展開しており、顧客側に不足しがちな農業知識や施設の立ち上げノウハウを提供すると同時に、自社ではさらに膨大な知識とノウハウを蓄積し、自らの事業拡大に活用している。これにより、同社は現在では世界30カ国で現地の企業や政府とパートナーシップ関係を構築している。
5.まとめ
世界的な食糧危機を乗り越えるためには、各国にとって食糧の安全保障は極めて重要な課題である。これを確実なものにするためには、自国の農業生産性を大幅に向上させ、食糧自給率を向上させることが求められる。これに向け、特に最近注目されているスマート農業は大いなる可能性を秘めており、今後の発展と普及は必要不可欠であると考える。
こうした状況の下、各国でスマート農業の取り組みが進められている中、オランダにおいては、官民連携システムが政府主導で構築され、国内に多数の農業クラスターを形成することで農業関連のイノベーションが生まれやすい環境づくりがなされている。また、スマート農業関連企業は省人化と高効率化に向けて徹底したハイテク活用を行っており、さらに、自国内のみならず、世界中で積極的なパートナーシップを提携し、win-winの関係を構築しながら知識やノウハウの蓄積と活発なイノベーションにも注力している。これらの取り組みによって、オランダは自国の農業の技術革新の高速化のみならず、スマート農業の普及や将来市場の先取りを非常に効率的に同時に進行させている。
一方で、日本でも政府と企業により、さまざまな仕組みづくりや取り組みがなされている。例えば、高知県では農業クラスターの形成に注力しているほか、畜産クラスターの形成なども進められている。本稿の第3節でも紹介したように、導入コストを重要視する現在の日本の農業のままでは、スマート農業を普及させるにはまだ道のりが遠い。しかし、スマート農業の普及が進まないと農業の発展そのものが遅れてしまう可能性が高く、そこにはある種のジレンマが存在しているようにも思える。その背景にはさまざまな要因があり、今回限られた調査期間の中では簡単に紐解くことはできなかったが、政府の注力度合いや産業界の思考展開が大きく関わっているのではないかと考える。また、オランダの場合、国の戦略的方針、地理的な要因など特性上の理由から、スマート農業分野において世界に先駆けているところもあり、日本がこれからスマート農業に注力していく際の参考になるところが多いのではなかろうか。世界各国の状況と合わせ、日本における今後のスマート農業導入の取り組みについて、引き続き注視していきたい。
[1] https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/17009/ 02.html
[2] 農林水産省「オランダの農林水産業概況」(2020年度更新)を参照 https://www.maff.go.jp/j/ kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/attach/pdf/index-190.pdf
※この記事は会員サービス「InfoCom T&S」より一部抜粋して公開しているものです。
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